2012年12月28日金曜日

T-90(ロシア連邦軍 戦車)

情報元:Wikipedia(T-90)

T-90(ロシア語: Т-90 テー・ヂヴィノースタ)は、ソビエト連邦、およびロシア連邦が開発した第三世代主力戦車である。T-72をベースに大幅に改良してより高価なT-80Uのレベルに近づけた戦車で、1993年にロシア連邦軍が制式採用した。ロシアでの愛称は「ヴラジーミル/ウラジーミル」(Владими́р)である。

T-90の開発は、ソ連時代に着手された。無人砲塔の搭載等、それまでのT-64、T-72、T-80とは異なる完全新設計戦車と西側諸国で噂されていたが、生産が開始されたのはソ連崩壊後で、既存のT-72をベースに改良強化したものであることが明らかになった。1994年の量産開始以降、ニジニ・タギルの産業合同「ウラルヴァゴンザヴォート」(ウラル車輌工場)で生産が行われている。T-90は湾岸戦争でガタ落ちになったT-72を初めとするロシア製兵器の評判を挽回し、輸出市場拡大による外貨獲得を目的に開発されたモデルであるとされるが、上位モデルであったT-80Uがコストの高さと装備の複数化の弊害とを理由にロシアでの生産打ち切りが決定し、新型主力戦車として予定されたT-95の開発も中止された事により、ロシア連邦軍にも当面の主力戦車として採用配備される事が確定した。
T-72の上位モデルといっていい既存のT-64とT-80がウクライナに存在する設計局と工場で製造されていたため、ソ連崩壊により新規車両やメンテナンスパーツの入手が不透明になったことも、開発の動機の一つであると考えられる。
主砲は2A46M-1 51口径125mm滑腔砲で、T-72の主砲を改良したものにあたる。APFSDS(装弾筒付翼安定徹甲弾)、HEAT(対戦車榴弾)、HE(榴弾)など、現代戦車では一般的な弾薬のほか、T-80で採用された9M119Mレフレクス対戦車ミサイル(NATOコードネームではAT-11 Sniper)を発射できる。
主砲からミサイルを発射できるのは旧東側戦車の特徴で、レフレクスの場合、レーザーを戦車から目標に照射し、その反射を捉えてミサイルを誘導するセミアクティブレーザー方式を採用している。ミサイルの飛翔速度はマッハ2に達し、射程は約5,000m。750mm~800mm程度の装甲(均質圧延鋼板換算)を貫通するという。
これら弾薬とミサイルは自動装填装置により装填されるため、T-90に装填手は搭乗していない。
装甲などの防御装備も改良されており、積層装甲と新型の爆発反応装甲コンタクト5を採用している。 また、敵戦闘車両や航空機などのFLIR(赤外線監視装置)や、赤外線誘導方式の対戦車ミサイルに対し、強力な赤外線を照射して妨害する能力や、敵のレーザー照射を妨害する能力を持ったミサイル警報装置を搭載しており、これらはTShU-1-7シュトーラ-1防御システムと呼ばれている。
エンジンは当初、T-72系列のエンジンを改良したV-84MSであったが、出力が840馬力で、重量46.5tのT-90にとっては必ずしも満足できるものではなかったため、1,000馬力程度のエンジンに置きかえられる模様である。

2012年12月27日木曜日

K1(大韓民国 戦車)

情報元:Wikipedia(K1)

K1は、大韓民国が開発した第二・五及び第三世代主力戦車である。元々の制式名は88戦車(88전차、パルパルチョンチャ)。

韓国陸軍は、創設以来M41やM48パットンなどのアメリカ製戦車を主力戦車として運用してきた。一方、国境を接する朝鮮民主主義人民共和国の朝鮮人民軍陸軍は、115mm滑腔砲を装備するT-62を天馬号の名でライセンス生産するなど戦車部隊を強化し、さらに強力な125mm滑腔砲を装備するT-72の配備も時間の問題とされていた。
これらの滑腔砲を装備するソ連製戦車に対し、M48やM60パットンなどの既存の戦車やそのアップグレートでは太刀打ちできないと判断した韓国政府は、独自での戦車開発を決意した。
しかし、当時の大韓民国陸軍には国産戦車の開発経験もノウハウも無く、戦車開発能力が不足していた。そこで1980年から、M1エイブラムス戦車を開発したアメリカのクライスラー・ディフェンス社(現:ジェネラル・ダイナミクス社)が設計・開発を行ない、試作車は1983年に完成した。生産は、韓国の現代車輌社(現代精密、現:現代ロテム)が担当して翌1984年から行われ、1987年に「88戦車」として公式に存在が発表された。同時期に大隊規模の訓練検閲が内外の報道陣に公開されている。

2012年12月25日火曜日

九五式重戦車(大日本帝国陸軍)

情報元:Wikipedia(九五式重戦車)

九五式重戦車(きゅうごしきじゅうせんしゃ)は日本陸軍が1935年(昭和10年)(皇紀2595年)に制式化した重戦車である。「九五式」の名は皇紀の下二桁から取られている。

第一次世界大戦では既に単一の全周旋回砲塔に武装を備えたルノーFT17軽戦車が登場したが、この近代的スタイルが各国に浸透していくには時間がかかった。この間、各国は他の形態の戦車の開発に試行錯誤を繰り返していた。このなかで生まれたのが複数の砲塔を持った多砲塔戦車であった。
イギリスでA1E1 インディペンデント重戦車が登場したのを皮切りに、世界各国でいくつかの多砲塔戦車が登場したが、車体が大きく被弾率が高い、武装を多くするために機動性を犠牲にしてしまう、1輌あたり金額が高いなどの理由で、T-28中戦車やT-35重戦車を製造したソ連以外は大々的な運用はしなかった。

九五式重戦車も多砲塔戦車の一種である。
国産初の戦車に試製1号戦車、その改良型に試製九一式重戦車があるが、これらは車体前後に機関銃を装備した銃塔を持つ多砲塔戦車であった。しかし両者共にコストや重量、機動性の問題から量産されることは無かった。 九五式重戦車は試製九一式重戦車を基に1932年(昭和7年)12月に開発がスタートし、1934年(昭和9年)9月には試作車が完成した。そのスタイルは試製1号戦車や試製九一式重戦車を踏襲しているが、装甲防護力や火力がより向上した。装甲に関してはさすが重戦車だけに前面装甲厚は35 mm とこの時期の日本戦車としては厚い。火力に関しては九五式軽戦車と九七式中戦車 チハを足したようなもので、70 mm 砲を搭載したということで榴弾威力の増大が利点であるが、同時期のソ連多砲塔戦車T-35重戦車の方が、火力、装甲とも上回っていた。足周りは八九式中戦車と同様のものであった。
九五式重戦車は1935年(昭和10年)に制式化され、陸軍の試験を受けたが実用性に欠けるとして生産は4輌にとどまった。これは陸軍が大陸での戦闘に於いて何より機動力が重要であると認識したからである。それは最高速度25 km/h、重量12 t の八九式中戦車でも不十分とされていたので、ましてや最高速度22 km/h、重量26 t の九五式重戦車の実用性は非常に低いとみなされたのである。結局、九五式重戦車が実戦に参加することはなかった。
1輌が三菱重工業によって10 cm カノン砲を搭載した自走砲(ジロ車)に改造されている。

2012年12月24日月曜日

Ⅱ号戦車(ドイツ軍軽戦車)

情報元:Wikipedia(Ⅱ号戦車)

II号戦車(にごうせんしゃ、Panzerkampfwagen II)は、ドイツで作られた軽戦車である。

a~c型、A~C型、F型に至る標準型と、砲塔は共通だが車体は全く別設計のD、E型、さらに(コンセプト上の)発展型で、これも別設計のG型以降の各タイプがある。 標準型II号戦車は、訓練及び戦車生産技術の習得用に開発された軽戦車であり、MAN 社及びダイムラー・ベンツ社、ヘンシェル社、ヴェクマン社、アルケット社、FAMO社、MIAG社によって生産された。主力戦車であるIII号戦車、IV号戦車の数が揃うまでの繋ぎとして、非力なI号戦車に代わって、ある程度の実戦能力を付与されたものである。試作型は1935年に完成し、1936年から増加試作型が数十輌作られ、翌年からA型が本格的に量産に入った。本車も I 号戦車同様に農業用トラクター(独:Landwirtschaftlicher Schlepper, 略号:LaS) の名目で開発されている。
I 号戦車の武装がMG13 7.92mm機関銃であるのに対し、II号戦車はKwK30 20mm(機関砲)に強化されている。a、b型では小転輪を2輪ずつリーフスプリング式サスペンションボギーで支え、さらにそのボギー軸をガーダービームで繋いだ形式であったが、c型では転輪一つごとに独立してリーフスプリング付きアームで支える形式となり、これが以降の型の標準となった。後にはこのシャーシを用いて様々な自走砲が造られた。

2012年12月11日火曜日

シュナイダーCA1(フランス戦車)

情報元:Wikipedia(シュナイダーCA1)

シュナイダーCA1(Char Schneider CA1)はフランス最初の戦車で、第一次世界大戦で使用された。フランスで主要な兵器製造企業の1つであったシュナイダー社により生産された。

アメリカのホルト社(現在のキャタピラー社)のデモンストレーションを見学したフランス陸軍大佐J.E.エスティエンヌ(en)は後にフランス最初の戦車になる装甲戦闘車両を発案した。彼は自らのアイディアを当時のフランス陸軍総司令官ジョッフル陸軍大将に手紙で送り、1915年12月に面会して生産の了解を取り付けた。設計はエスティエンヌとシュナイダー社のウージューヌ・ブリエの共同設計で、1916年2月25日に製造が開始され、同年9月に最初の1輌が完成した。
本車やサン・シャモン突撃戦車の指揮・支援用に設計されたルノー FT-17 軽戦車が好成績だったこともあり、当初1,500輛を構想された生産計画は放棄され、第一次世界大戦の終戦を待たずに生産を終了した。1918年8月までにプロトタイプを含め400輛が生産された。うち20輛はイタリアに売却される予定であったが、引き渡されたのは1〜2輛にとどまる。

2012年12月8日土曜日

T-18(ソビエト連邦 軽戦車)

情報元:Wikipedia(T-18)

T-18(ロシア語:Т-18)は、1928年から1931年にかけて生産された、ソ連が設計した最初の戦車である。MS-1(ロシア語:МС-1)という別名もある。ルノー FT-17 軽戦車を参考に設計されているが、走行装置に垂直スプリングサスペンションを使用するなどの違いがある。

T-18は、新たに軍事産業中央理事会の下に新設された戦車設計局の V.ザスラフスキー博士によって設計された。エンジンにはモスクワの AMO 工場が生産するイタリアのフィアット15terをコピーした35馬力のトラック用エンジンが選ばれ、主砲は FT-17 にも搭載されていたフランスの37mmオチキス SA 18 を模倣・改良したものを使用した。足回りにはスプリング式サスペンションを採用し、ルノー FT-17 と比べて路外走行性能が大きく向上していた。T-16 と呼ばれる原型車両は1927年6月に試験を受け、小改良を加えた後、7月に T-18 として量産が決定された。
T-18 の生産は、1928年5月に、レニングラード・オブホフ工場(後のボルシェビク工場)で開始された。最も初期の30両は深刻な機械的問題を抱えていた。その後も T-18 の生産は度々停止されたが、1929年には40馬力のエンジンと砲塔後部の張り出しを持った改良型が導入され、1931年までに960両が生産された。また、T-16 と T-18 は数々の実験車両のベースとなり、それらはボルシェビク工場でのテストを受けた。結果として、90馬力のエンジンを搭載する T-19、60馬力のエンジンを搭載する T-20 が開発されることになった。ハリコフ自動車工場に新たに設立された T2K 戦車設計局(後のモロゾフ設計局)では、T-18 を元に T-24 を開発している。
1929年に満州で中ソ紛争が発生した際には、T-18 を装備した実験部隊が出動し、張学良率いる中国軍と交戦している。
T-18 とその派生車両は基本的に失敗作であったが、ソ連産業にとっては、戦闘車両を初めて設計するという貴重な経験になった。

2012年12月7日金曜日

LAV-25(アメリカ海兵隊 八輪式歩兵戦闘車)

情報元:Wikipedia(LAV-25)

LAV-25(英語: Light Armored Vehicle)はアメリカ海兵隊が使用する八輪式歩兵戦闘車(IFV)である。スイスのモワク社製装甲戦闘車両 (AFV) ピラーニャ・ファミリーを基に開発され、ジェネラル・ダイナミクス・ランド・システムズ・カナダ (GDLS Canada) が製造している。

デトロイト・ディーゼル製6V53Tターボチャージャーエンジンを動力とする。前4輪を使って回頭するが、走行に使う駆動輪は全8輪または後4輪のいずれかを選択できる。LAV-25は水陸両用車であり、上陸作戦中の最大速度は約12 km/hである。水上航行能力があるものの、水面に波が無い環境に限られている。陸上での走行速度は8輪も4輪も共に約100 km/hを出すことができる。しかし、8輪駆動の場合は燃費に影響をおよぼす。
LAV-25は25×137mm口径のM242 ブッシュマスター砲 1門と7.62×51mm口径のM240機関銃 2丁、4連装発煙グレネード発射機 2基が標準装備である。乗員は3名で、車長、操縦士、砲手から構成されている。これと兵員6名の他、戦闘機材を搭載できる。
1990年代後半から多くの改良を施されているが、現在はSLEP(延命プログラム)の改修計画が進行している。新造の改良型車とSLEPを受けたLAV-25はLAV-25A1へと名称を変えた。また、LAV-25A2へ発展させるためLAVファミリーの継続的なアップグレードに必要な資金提供が承認された。アップグレードの第一段は車体内外の装甲強化、火力制圧装備、サスペンションの改善などである。第二段のLAV-25A2では、油圧で旋回させていた砲塔の動力を電動駆動に入れ替え、火器管制装置の赤外線カメラがレーザー測距儀に変更された。

2012年12月5日水曜日

スーパーシャーマン(イスラエル国防軍戦車)

情報元:Wikipedia(スーパーシャーマン)

スーパーシャーマン(Super-Sherman)は、アメリカ合衆国が開発・生産したM4シャーマン戦車に、イスラエル国防軍(IDF)が独自の改良を加えて1950年代から1980年代にかけて使用したM1/M50/M51戦車の俗称である。

M4の導入
第二次世界大戦終結後、イギリスに委任統治されていたパレスチナでは、ユダヤ人達が1948年5月14日付の期限切れと共にユダヤ人国家建国の準備を進めており、同時に予想された周辺アラブ国家およびパレスチナ人勢力との戦争に向けて軍事組織ハガナーを中心に軍備増強を進めていた。しかし表立った武器輸入が禁止されていたため銃火器や非武装車輌の密輸程度に留まっており、砂漠での地上戦を制するのに必要な戦車の調達が急務であった。
シャーマンM4(105 mm 榴弾砲装備型)
そこでハガナーは、引き揚げのために港町ハイファに集結していたイギリス軍からM4シャーマンおよびクロムウェル巡航戦車計6輌を盗み出した。これらの戦車は、イスラエル独立宣言と共に始まった第一次中東戦争において貴重な機甲戦力となった。一時休戦時には、ハガナーを中心にイスラエル国防軍が編成された。イスラエル国防軍は、世界中から中古のM4をスクラップなどの名目でかき集めた。これらの戦車は砲に穴が空けられるなどして、兵器として再利用できないようになっていた。軍は、当初は金属の栓で砲の穴を塞ぎ、後にはスイスで入手したクルップ社製1911年式75 mm 砲に換装するなどして、使用可能なM4戦車として復活させ、初期の機甲部隊の中核戦力とした。第一次中東戦争が終結してイスラエルが国家として認められると、完全な状態の車両や正規の部品・装備品も輸入できる様になった。
アメリカの高い自動車産業技術を背景に製造されたM4戦車は、シンプルで機械的信頼性が高く、各型の部品の互換性も高く、また、後に導入されるセンチュリオンと違い、中東の砂漠地帯における運用上の問題もなく、その後長期に渡ってイスラエル軍の戦車兵に愛される事となった。なおこれらの車輌は75 mm 砲または105 mm 榴弾砲装備型が中心であり、3インチ(76.2 mm)砲装備型やイギリス軍が17ポンド砲を搭載させたファイアフライはほとんど含まれていなかったようである。そのためアラブ諸国の導入したソ連製戦車にやがて火力において劣勢を喫する事となり、更に大戦中から既に指摘されていた装甲防御力の不足も深刻な問題となっていった。後述するように、エンジンや走行系の換装をもってしても重量的に攻撃力と防御力の双方同時の強化には無理があり、やむなく火力強化のみに的を絞ったアップグレードが図られていく事となった。

M1スーパーシャーマン
1956年頃、当時のアラブ諸国の主力戦車T-34/85に対抗してM4の火力強化が推進され、後述のM50の開発と並行して、それまで中心であった75 mm 砲搭載車に加えて、フランスから76 mm 砲を搭載した250輛程のM4A1(鋳造車体型)および少数のM4A3(溶接車体型)を導入した。同車に搭載された76 mm 砲(M1A1/M1A2)はT-34/85に対して十分な威力を発揮し、この事から75 mm 砲搭載車との区別のために搭載砲に因んでM1スーパーシャーマンの名が与えられた。これに伴い、IDF内部では既存のシャーマンを基となった車輌の形式は無関係にM3 75 mm 砲を搭載した車輌はシャーマンM3、M4 105 mm 榴弾砲を搭載した車輌はシャーマンM4と呼んで区別するようになった。
一部の車輌は1960年代半ばには足回りをオリジナルのVVSSからHVSSサスペンションと幅広履帯に換装し、さらに1970年代にエンジンをカミンズVT-8系ディーゼルエンジンに換装され、1973年の第四次中東戦争でもドーザー車などの特殊用途に使用された。

M50スーパーシャーマン
M1の導入と並行して、旧75 mm 砲搭載車のアップグレードとしてフランスのAMX-13軽戦車に搭載されていた75 mm 戦車砲CN-75-50の搭載が検討され(同じ75 mm 砲でもこちらはパンター中戦車の7.5 cm KwK 42 L/70戦車砲を改良した物で威力は段違いだった。なお同時に検討されたAMX-13自体の導入は自動装填装置の信頼性などから一度は見送られたが、結局後に導入されている)、M50スーパーシャーマンが生み出された。砲塔はオリジナルの75 mm 砲塔(装填手用ハッチ付きの後期型)をベースに前後を鋳造部品を溶接して延長、砲尾と後退量の大きなCN-75-50砲を搭載するスペースを確保している。装填は手動式に変更された。(なお、第二次世界大戦中にイギリスがM4シャーマンの主砲を17ポンド砲に換装したシャーマン ファイアフライも砲塔後部を延長している)。車長用ハッチは両開き式の物と、後期の片開き式の物が混在している。又、砲塔側面には発煙弾発射機が装着されている。
ベース車体はM4A4の延長車体が最も多かった様だが、鋳造のA1を使用したものも多く、標準長の溶接車体、M4ハイブリッド車体を使用した車輌も存在している。又、M4A4、A2、A3の車体をベースとした場合には、エンジンはM4・M4A1と同じコンチネンタル製ガソリンエンジンに統一されている様である。VVSSサスペンションや転輪類、デファレンシャルカバーは新旧様々なタイプが混用されているが、履帯はほぼ全てのVVSSタイプで、T54E1が使用されている。60年代頃にはHVSSやカミンズ製ディーゼルエンジンへの換装が行われ、増幅されたフェンダー上には工具箱やジェリカン、予備転輪や履帯などの車外装備品が搭載された。又、この時期に主砲基部にサーチライトを装備する改造が行われた様である。また、カミンズ製ディーゼルエンジン装備タイプも60年代~70年代後期にかけ何段階かの改修がおこなわれており、初期には車体下部リアパネルにM4A3のような排気管が装備されていたが、70年代には排気管は車体エンジンデッキ上に移されている。なお前述のM1と後述のM51なども含めて、M4A4延長車体以外の車体ではカミンズ製ディーゼルエンジンがわずかに納まり切らず、車体後部のエンジン点検ハッチ部分が10 cm ほど増厚されている。
1956年の第二次中東戦争では、エジプト軍の使用したAMX-13の砲塔その物を装備したM4戦車などと交戦した。またレバノン内戦以降は南レバノン軍(SLA)などに供給されている。

M51スーパーシャーマン
1960年頃、アラブ諸国が導入を進めていたスターリン重戦車やT-55戦車への対抗策として更に強力な105 mm 砲の導入が検討され、フランスがAMX-30用に開発したCN-105-F1砲が候補に挙がった。同砲はHEAT弾のライフリング回転による威力低下をベアリングで相殺して抑える当時としては画期的な「G弾」を使用できたのが特徴で、イスラエルとフランスとの共同研究の結果、砲身長を56口径から44口径に短縮し(それでも約4.5メートルに達した)、先端に板金溶接製の巨大なマズルブレーキを搭載して後退量を抑える事でM4の76 mm 砲塔への搭載を可能にした。(砲身長が短くなった事で砲弾初速は低下したが、化学エネルギーを利用するHEAT弾を使用する為、砲威力は殆ど低下しなかった。) こうして1962年に同砲を搭載したM51スーパーシャーマンが生み出された。車体はM4A1鋳造後期型車体を使用(一部はA3溶接後期型車体)、砲塔は長大な砲身との重量バランスを取るために後部が延長された。生産時期の関係から、殆どの車両がHVSSサスペンション・カミンズ製ディーゼルエンジンを装備しているが、初期に製造された物の中にはコンチネンタル製ガソリンエンジンを装備している例も有る。
1967年の第三次中東戦争では、既に導入の始まっていたセンチュリオン(ショット)やM48パットン(マガフ)と遜色無い能力を発揮し、エジプト軍機甲部隊相手に圧倒的な戦果を挙げている。なおエンジン排気管や車外装備品の配置、砲塔の機銃や迫撃砲の有無など、時期によって細部の変化が見られる(前述のM50の項も参照)。

2012年12月4日火曜日

M4 シャーマン(アメリカ軍中戦車)

情報元:Wikipedia(M4 シャーマン)

M4中戦車とは、第二次世界大戦時にアメリカ合衆国で開発・製造された中戦車である。通称はシャーマン(Sherman)であるが、これはイギリス軍がつけた名称であり、南北戦争の時に北部の将軍だったウィリアム・シャーマンにちなむ。アメリカ軍では非公式の呼び名であったが、兵士達の間では使われることも多かった。
生産に参加した主要企業は11社にも及び、1945年までに全車種で49,234輌が生産された。

優れた信頼性と量産性により、第二次世界大戦の連合国戦車の代名詞になった戦車。アメリカの高い工業力を基盤にして大量生産された。M4という形式名で呼ばれているものの、車体・発動機・砲塔・砲・サスペンション・履帯など多くのバリエーションを持つのは、各生産工場の得意とする生産方式・部品を活かして並行生産させたためであるが、構成部品の規格化により殆どの車体構成部品に互換性を持たせることに成功し、高い信頼性が保たれていた。敵対するナチス・ドイツの特にV号戦車パンターやVI号戦車などに車輌単体での性能こそ劣っていたが、数で圧倒することができた。
北アフリカ及びヨーロッパでの米軍対ナチス・ドイツの戦いに加えて日本軍を敵とする太平洋戦争にも投入された。またイギリス、カナダ、オーストラリアをはじめとするイギリス連邦加盟国の他、ソビエト連邦に4,000輌以上が、自由フランス軍やポーランド亡命政府軍にもレンドリースされている。
「M4の75 / 76 mm 砲で十分」とするAGF(Army Ground Forces 陸軍地上軍)の甘い判断で、M26パーシングの配備が遅らされ、終戦まで連合国軍の主力戦車として活躍した。
第二次世界大戦後も朝鮮戦争や印パ戦争、中東戦争などで使用され、特にイスラエル国防軍はM4の中古・スクラップを大量にかき集めて再生し初期の陸戦力の中核として活用、その後独自の改良により「最強のシャーマン」と呼ばれるM50/M51スーパーシャーマンを生み出している。
第一線を退いた後も装甲回収車などの支援車両に改造され最近まで各国で使用されていた。
M4A3E8型はMSA協定により日本の陸上自衛隊にも供与されて1970年代半ばまで使用され、70年代末には61式戦車と交代するかたちで全車が退役した。
現在ではほとんどの国で引退しているが、パラグアイでは現在でも少数が主力戦車として使用されている。