2012年12月28日金曜日

T-90(ロシア連邦軍 戦車)

情報元:Wikipedia(T-90)

T-90(ロシア語: Т-90 テー・ヂヴィノースタ)は、ソビエト連邦、およびロシア連邦が開発した第三世代主力戦車である。T-72をベースに大幅に改良してより高価なT-80Uのレベルに近づけた戦車で、1993年にロシア連邦軍が制式採用した。ロシアでの愛称は「ヴラジーミル/ウラジーミル」(Владими́р)である。

T-90の開発は、ソ連時代に着手された。無人砲塔の搭載等、それまでのT-64、T-72、T-80とは異なる完全新設計戦車と西側諸国で噂されていたが、生産が開始されたのはソ連崩壊後で、既存のT-72をベースに改良強化したものであることが明らかになった。1994年の量産開始以降、ニジニ・タギルの産業合同「ウラルヴァゴンザヴォート」(ウラル車輌工場)で生産が行われている。T-90は湾岸戦争でガタ落ちになったT-72を初めとするロシア製兵器の評判を挽回し、輸出市場拡大による外貨獲得を目的に開発されたモデルであるとされるが、上位モデルであったT-80Uがコストの高さと装備の複数化の弊害とを理由にロシアでの生産打ち切りが決定し、新型主力戦車として予定されたT-95の開発も中止された事により、ロシア連邦軍にも当面の主力戦車として採用配備される事が確定した。
T-72の上位モデルといっていい既存のT-64とT-80がウクライナに存在する設計局と工場で製造されていたため、ソ連崩壊により新規車両やメンテナンスパーツの入手が不透明になったことも、開発の動機の一つであると考えられる。
主砲は2A46M-1 51口径125mm滑腔砲で、T-72の主砲を改良したものにあたる。APFSDS(装弾筒付翼安定徹甲弾)、HEAT(対戦車榴弾)、HE(榴弾)など、現代戦車では一般的な弾薬のほか、T-80で採用された9M119Mレフレクス対戦車ミサイル(NATOコードネームではAT-11 Sniper)を発射できる。
主砲からミサイルを発射できるのは旧東側戦車の特徴で、レフレクスの場合、レーザーを戦車から目標に照射し、その反射を捉えてミサイルを誘導するセミアクティブレーザー方式を採用している。ミサイルの飛翔速度はマッハ2に達し、射程は約5,000m。750mm~800mm程度の装甲(均質圧延鋼板換算)を貫通するという。
これら弾薬とミサイルは自動装填装置により装填されるため、T-90に装填手は搭乗していない。
装甲などの防御装備も改良されており、積層装甲と新型の爆発反応装甲コンタクト5を採用している。 また、敵戦闘車両や航空機などのFLIR(赤外線監視装置)や、赤外線誘導方式の対戦車ミサイルに対し、強力な赤外線を照射して妨害する能力や、敵のレーザー照射を妨害する能力を持ったミサイル警報装置を搭載しており、これらはTShU-1-7シュトーラ-1防御システムと呼ばれている。
エンジンは当初、T-72系列のエンジンを改良したV-84MSであったが、出力が840馬力で、重量46.5tのT-90にとっては必ずしも満足できるものではなかったため、1,000馬力程度のエンジンに置きかえられる模様である。

2012年12月27日木曜日

K1(大韓民国 戦車)

情報元:Wikipedia(K1)

K1は、大韓民国が開発した第二・五及び第三世代主力戦車である。元々の制式名は88戦車(88전차、パルパルチョンチャ)。

韓国陸軍は、創設以来M41やM48パットンなどのアメリカ製戦車を主力戦車として運用してきた。一方、国境を接する朝鮮民主主義人民共和国の朝鮮人民軍陸軍は、115mm滑腔砲を装備するT-62を天馬号の名でライセンス生産するなど戦車部隊を強化し、さらに強力な125mm滑腔砲を装備するT-72の配備も時間の問題とされていた。
これらの滑腔砲を装備するソ連製戦車に対し、M48やM60パットンなどの既存の戦車やそのアップグレートでは太刀打ちできないと判断した韓国政府は、独自での戦車開発を決意した。
しかし、当時の大韓民国陸軍には国産戦車の開発経験もノウハウも無く、戦車開発能力が不足していた。そこで1980年から、M1エイブラムス戦車を開発したアメリカのクライスラー・ディフェンス社(現:ジェネラル・ダイナミクス社)が設計・開発を行ない、試作車は1983年に完成した。生産は、韓国の現代車輌社(現代精密、現:現代ロテム)が担当して翌1984年から行われ、1987年に「88戦車」として公式に存在が発表された。同時期に大隊規模の訓練検閲が内外の報道陣に公開されている。

2012年12月25日火曜日

九五式重戦車(大日本帝国陸軍)

情報元:Wikipedia(九五式重戦車)

九五式重戦車(きゅうごしきじゅうせんしゃ)は日本陸軍が1935年(昭和10年)(皇紀2595年)に制式化した重戦車である。「九五式」の名は皇紀の下二桁から取られている。

第一次世界大戦では既に単一の全周旋回砲塔に武装を備えたルノーFT17軽戦車が登場したが、この近代的スタイルが各国に浸透していくには時間がかかった。この間、各国は他の形態の戦車の開発に試行錯誤を繰り返していた。このなかで生まれたのが複数の砲塔を持った多砲塔戦車であった。
イギリスでA1E1 インディペンデント重戦車が登場したのを皮切りに、世界各国でいくつかの多砲塔戦車が登場したが、車体が大きく被弾率が高い、武装を多くするために機動性を犠牲にしてしまう、1輌あたり金額が高いなどの理由で、T-28中戦車やT-35重戦車を製造したソ連以外は大々的な運用はしなかった。

九五式重戦車も多砲塔戦車の一種である。
国産初の戦車に試製1号戦車、その改良型に試製九一式重戦車があるが、これらは車体前後に機関銃を装備した銃塔を持つ多砲塔戦車であった。しかし両者共にコストや重量、機動性の問題から量産されることは無かった。 九五式重戦車は試製九一式重戦車を基に1932年(昭和7年)12月に開発がスタートし、1934年(昭和9年)9月には試作車が完成した。そのスタイルは試製1号戦車や試製九一式重戦車を踏襲しているが、装甲防護力や火力がより向上した。装甲に関してはさすが重戦車だけに前面装甲厚は35 mm とこの時期の日本戦車としては厚い。火力に関しては九五式軽戦車と九七式中戦車 チハを足したようなもので、70 mm 砲を搭載したということで榴弾威力の増大が利点であるが、同時期のソ連多砲塔戦車T-35重戦車の方が、火力、装甲とも上回っていた。足周りは八九式中戦車と同様のものであった。
九五式重戦車は1935年(昭和10年)に制式化され、陸軍の試験を受けたが実用性に欠けるとして生産は4輌にとどまった。これは陸軍が大陸での戦闘に於いて何より機動力が重要であると認識したからである。それは最高速度25 km/h、重量12 t の八九式中戦車でも不十分とされていたので、ましてや最高速度22 km/h、重量26 t の九五式重戦車の実用性は非常に低いとみなされたのである。結局、九五式重戦車が実戦に参加することはなかった。
1輌が三菱重工業によって10 cm カノン砲を搭載した自走砲(ジロ車)に改造されている。

2012年12月24日月曜日

Ⅱ号戦車(ドイツ軍軽戦車)

情報元:Wikipedia(Ⅱ号戦車)

II号戦車(にごうせんしゃ、Panzerkampfwagen II)は、ドイツで作られた軽戦車である。

a~c型、A~C型、F型に至る標準型と、砲塔は共通だが車体は全く別設計のD、E型、さらに(コンセプト上の)発展型で、これも別設計のG型以降の各タイプがある。 標準型II号戦車は、訓練及び戦車生産技術の習得用に開発された軽戦車であり、MAN 社及びダイムラー・ベンツ社、ヘンシェル社、ヴェクマン社、アルケット社、FAMO社、MIAG社によって生産された。主力戦車であるIII号戦車、IV号戦車の数が揃うまでの繋ぎとして、非力なI号戦車に代わって、ある程度の実戦能力を付与されたものである。試作型は1935年に完成し、1936年から増加試作型が数十輌作られ、翌年からA型が本格的に量産に入った。本車も I 号戦車同様に農業用トラクター(独:Landwirtschaftlicher Schlepper, 略号:LaS) の名目で開発されている。
I 号戦車の武装がMG13 7.92mm機関銃であるのに対し、II号戦車はKwK30 20mm(機関砲)に強化されている。a、b型では小転輪を2輪ずつリーフスプリング式サスペンションボギーで支え、さらにそのボギー軸をガーダービームで繋いだ形式であったが、c型では転輪一つごとに独立してリーフスプリング付きアームで支える形式となり、これが以降の型の標準となった。後にはこのシャーシを用いて様々な自走砲が造られた。

2012年12月11日火曜日

シュナイダーCA1(フランス戦車)

情報元:Wikipedia(シュナイダーCA1)

シュナイダーCA1(Char Schneider CA1)はフランス最初の戦車で、第一次世界大戦で使用された。フランスで主要な兵器製造企業の1つであったシュナイダー社により生産された。

アメリカのホルト社(現在のキャタピラー社)のデモンストレーションを見学したフランス陸軍大佐J.E.エスティエンヌ(en)は後にフランス最初の戦車になる装甲戦闘車両を発案した。彼は自らのアイディアを当時のフランス陸軍総司令官ジョッフル陸軍大将に手紙で送り、1915年12月に面会して生産の了解を取り付けた。設計はエスティエンヌとシュナイダー社のウージューヌ・ブリエの共同設計で、1916年2月25日に製造が開始され、同年9月に最初の1輌が完成した。
本車やサン・シャモン突撃戦車の指揮・支援用に設計されたルノー FT-17 軽戦車が好成績だったこともあり、当初1,500輛を構想された生産計画は放棄され、第一次世界大戦の終戦を待たずに生産を終了した。1918年8月までにプロトタイプを含め400輛が生産された。うち20輛はイタリアに売却される予定であったが、引き渡されたのは1〜2輛にとどまる。

2012年12月8日土曜日

T-18(ソビエト連邦 軽戦車)

情報元:Wikipedia(T-18)

T-18(ロシア語:Т-18)は、1928年から1931年にかけて生産された、ソ連が設計した最初の戦車である。MS-1(ロシア語:МС-1)という別名もある。ルノー FT-17 軽戦車を参考に設計されているが、走行装置に垂直スプリングサスペンションを使用するなどの違いがある。

T-18は、新たに軍事産業中央理事会の下に新設された戦車設計局の V.ザスラフスキー博士によって設計された。エンジンにはモスクワの AMO 工場が生産するイタリアのフィアット15terをコピーした35馬力のトラック用エンジンが選ばれ、主砲は FT-17 にも搭載されていたフランスの37mmオチキス SA 18 を模倣・改良したものを使用した。足回りにはスプリング式サスペンションを採用し、ルノー FT-17 と比べて路外走行性能が大きく向上していた。T-16 と呼ばれる原型車両は1927年6月に試験を受け、小改良を加えた後、7月に T-18 として量産が決定された。
T-18 の生産は、1928年5月に、レニングラード・オブホフ工場(後のボルシェビク工場)で開始された。最も初期の30両は深刻な機械的問題を抱えていた。その後も T-18 の生産は度々停止されたが、1929年には40馬力のエンジンと砲塔後部の張り出しを持った改良型が導入され、1931年までに960両が生産された。また、T-16 と T-18 は数々の実験車両のベースとなり、それらはボルシェビク工場でのテストを受けた。結果として、90馬力のエンジンを搭載する T-19、60馬力のエンジンを搭載する T-20 が開発されることになった。ハリコフ自動車工場に新たに設立された T2K 戦車設計局(後のモロゾフ設計局)では、T-18 を元に T-24 を開発している。
1929年に満州で中ソ紛争が発生した際には、T-18 を装備した実験部隊が出動し、張学良率いる中国軍と交戦している。
T-18 とその派生車両は基本的に失敗作であったが、ソ連産業にとっては、戦闘車両を初めて設計するという貴重な経験になった。

2012年12月7日金曜日

LAV-25(アメリカ海兵隊 八輪式歩兵戦闘車)

情報元:Wikipedia(LAV-25)

LAV-25(英語: Light Armored Vehicle)はアメリカ海兵隊が使用する八輪式歩兵戦闘車(IFV)である。スイスのモワク社製装甲戦闘車両 (AFV) ピラーニャ・ファミリーを基に開発され、ジェネラル・ダイナミクス・ランド・システムズ・カナダ (GDLS Canada) が製造している。

デトロイト・ディーゼル製6V53Tターボチャージャーエンジンを動力とする。前4輪を使って回頭するが、走行に使う駆動輪は全8輪または後4輪のいずれかを選択できる。LAV-25は水陸両用車であり、上陸作戦中の最大速度は約12 km/hである。水上航行能力があるものの、水面に波が無い環境に限られている。陸上での走行速度は8輪も4輪も共に約100 km/hを出すことができる。しかし、8輪駆動の場合は燃費に影響をおよぼす。
LAV-25は25×137mm口径のM242 ブッシュマスター砲 1門と7.62×51mm口径のM240機関銃 2丁、4連装発煙グレネード発射機 2基が標準装備である。乗員は3名で、車長、操縦士、砲手から構成されている。これと兵員6名の他、戦闘機材を搭載できる。
1990年代後半から多くの改良を施されているが、現在はSLEP(延命プログラム)の改修計画が進行している。新造の改良型車とSLEPを受けたLAV-25はLAV-25A1へと名称を変えた。また、LAV-25A2へ発展させるためLAVファミリーの継続的なアップグレードに必要な資金提供が承認された。アップグレードの第一段は車体内外の装甲強化、火力制圧装備、サスペンションの改善などである。第二段のLAV-25A2では、油圧で旋回させていた砲塔の動力を電動駆動に入れ替え、火器管制装置の赤外線カメラがレーザー測距儀に変更された。

2012年12月5日水曜日

スーパーシャーマン(イスラエル国防軍戦車)

情報元:Wikipedia(スーパーシャーマン)

スーパーシャーマン(Super-Sherman)は、アメリカ合衆国が開発・生産したM4シャーマン戦車に、イスラエル国防軍(IDF)が独自の改良を加えて1950年代から1980年代にかけて使用したM1/M50/M51戦車の俗称である。

M4の導入
第二次世界大戦終結後、イギリスに委任統治されていたパレスチナでは、ユダヤ人達が1948年5月14日付の期限切れと共にユダヤ人国家建国の準備を進めており、同時に予想された周辺アラブ国家およびパレスチナ人勢力との戦争に向けて軍事組織ハガナーを中心に軍備増強を進めていた。しかし表立った武器輸入が禁止されていたため銃火器や非武装車輌の密輸程度に留まっており、砂漠での地上戦を制するのに必要な戦車の調達が急務であった。
シャーマンM4(105 mm 榴弾砲装備型)
そこでハガナーは、引き揚げのために港町ハイファに集結していたイギリス軍からM4シャーマンおよびクロムウェル巡航戦車計6輌を盗み出した。これらの戦車は、イスラエル独立宣言と共に始まった第一次中東戦争において貴重な機甲戦力となった。一時休戦時には、ハガナーを中心にイスラエル国防軍が編成された。イスラエル国防軍は、世界中から中古のM4をスクラップなどの名目でかき集めた。これらの戦車は砲に穴が空けられるなどして、兵器として再利用できないようになっていた。軍は、当初は金属の栓で砲の穴を塞ぎ、後にはスイスで入手したクルップ社製1911年式75 mm 砲に換装するなどして、使用可能なM4戦車として復活させ、初期の機甲部隊の中核戦力とした。第一次中東戦争が終結してイスラエルが国家として認められると、完全な状態の車両や正規の部品・装備品も輸入できる様になった。
アメリカの高い自動車産業技術を背景に製造されたM4戦車は、シンプルで機械的信頼性が高く、各型の部品の互換性も高く、また、後に導入されるセンチュリオンと違い、中東の砂漠地帯における運用上の問題もなく、その後長期に渡ってイスラエル軍の戦車兵に愛される事となった。なおこれらの車輌は75 mm 砲または105 mm 榴弾砲装備型が中心であり、3インチ(76.2 mm)砲装備型やイギリス軍が17ポンド砲を搭載させたファイアフライはほとんど含まれていなかったようである。そのためアラブ諸国の導入したソ連製戦車にやがて火力において劣勢を喫する事となり、更に大戦中から既に指摘されていた装甲防御力の不足も深刻な問題となっていった。後述するように、エンジンや走行系の換装をもってしても重量的に攻撃力と防御力の双方同時の強化には無理があり、やむなく火力強化のみに的を絞ったアップグレードが図られていく事となった。

M1スーパーシャーマン
1956年頃、当時のアラブ諸国の主力戦車T-34/85に対抗してM4の火力強化が推進され、後述のM50の開発と並行して、それまで中心であった75 mm 砲搭載車に加えて、フランスから76 mm 砲を搭載した250輛程のM4A1(鋳造車体型)および少数のM4A3(溶接車体型)を導入した。同車に搭載された76 mm 砲(M1A1/M1A2)はT-34/85に対して十分な威力を発揮し、この事から75 mm 砲搭載車との区別のために搭載砲に因んでM1スーパーシャーマンの名が与えられた。これに伴い、IDF内部では既存のシャーマンを基となった車輌の形式は無関係にM3 75 mm 砲を搭載した車輌はシャーマンM3、M4 105 mm 榴弾砲を搭載した車輌はシャーマンM4と呼んで区別するようになった。
一部の車輌は1960年代半ばには足回りをオリジナルのVVSSからHVSSサスペンションと幅広履帯に換装し、さらに1970年代にエンジンをカミンズVT-8系ディーゼルエンジンに換装され、1973年の第四次中東戦争でもドーザー車などの特殊用途に使用された。

M50スーパーシャーマン
M1の導入と並行して、旧75 mm 砲搭載車のアップグレードとしてフランスのAMX-13軽戦車に搭載されていた75 mm 戦車砲CN-75-50の搭載が検討され(同じ75 mm 砲でもこちらはパンター中戦車の7.5 cm KwK 42 L/70戦車砲を改良した物で威力は段違いだった。なお同時に検討されたAMX-13自体の導入は自動装填装置の信頼性などから一度は見送られたが、結局後に導入されている)、M50スーパーシャーマンが生み出された。砲塔はオリジナルの75 mm 砲塔(装填手用ハッチ付きの後期型)をベースに前後を鋳造部品を溶接して延長、砲尾と後退量の大きなCN-75-50砲を搭載するスペースを確保している。装填は手動式に変更された。(なお、第二次世界大戦中にイギリスがM4シャーマンの主砲を17ポンド砲に換装したシャーマン ファイアフライも砲塔後部を延長している)。車長用ハッチは両開き式の物と、後期の片開き式の物が混在している。又、砲塔側面には発煙弾発射機が装着されている。
ベース車体はM4A4の延長車体が最も多かった様だが、鋳造のA1を使用したものも多く、標準長の溶接車体、M4ハイブリッド車体を使用した車輌も存在している。又、M4A4、A2、A3の車体をベースとした場合には、エンジンはM4・M4A1と同じコンチネンタル製ガソリンエンジンに統一されている様である。VVSSサスペンションや転輪類、デファレンシャルカバーは新旧様々なタイプが混用されているが、履帯はほぼ全てのVVSSタイプで、T54E1が使用されている。60年代頃にはHVSSやカミンズ製ディーゼルエンジンへの換装が行われ、増幅されたフェンダー上には工具箱やジェリカン、予備転輪や履帯などの車外装備品が搭載された。又、この時期に主砲基部にサーチライトを装備する改造が行われた様である。また、カミンズ製ディーゼルエンジン装備タイプも60年代~70年代後期にかけ何段階かの改修がおこなわれており、初期には車体下部リアパネルにM4A3のような排気管が装備されていたが、70年代には排気管は車体エンジンデッキ上に移されている。なお前述のM1と後述のM51なども含めて、M4A4延長車体以外の車体ではカミンズ製ディーゼルエンジンがわずかに納まり切らず、車体後部のエンジン点検ハッチ部分が10 cm ほど増厚されている。
1956年の第二次中東戦争では、エジプト軍の使用したAMX-13の砲塔その物を装備したM4戦車などと交戦した。またレバノン内戦以降は南レバノン軍(SLA)などに供給されている。

M51スーパーシャーマン
1960年頃、アラブ諸国が導入を進めていたスターリン重戦車やT-55戦車への対抗策として更に強力な105 mm 砲の導入が検討され、フランスがAMX-30用に開発したCN-105-F1砲が候補に挙がった。同砲はHEAT弾のライフリング回転による威力低下をベアリングで相殺して抑える当時としては画期的な「G弾」を使用できたのが特徴で、イスラエルとフランスとの共同研究の結果、砲身長を56口径から44口径に短縮し(それでも約4.5メートルに達した)、先端に板金溶接製の巨大なマズルブレーキを搭載して後退量を抑える事でM4の76 mm 砲塔への搭載を可能にした。(砲身長が短くなった事で砲弾初速は低下したが、化学エネルギーを利用するHEAT弾を使用する為、砲威力は殆ど低下しなかった。) こうして1962年に同砲を搭載したM51スーパーシャーマンが生み出された。車体はM4A1鋳造後期型車体を使用(一部はA3溶接後期型車体)、砲塔は長大な砲身との重量バランスを取るために後部が延長された。生産時期の関係から、殆どの車両がHVSSサスペンション・カミンズ製ディーゼルエンジンを装備しているが、初期に製造された物の中にはコンチネンタル製ガソリンエンジンを装備している例も有る。
1967年の第三次中東戦争では、既に導入の始まっていたセンチュリオン(ショット)やM48パットン(マガフ)と遜色無い能力を発揮し、エジプト軍機甲部隊相手に圧倒的な戦果を挙げている。なおエンジン排気管や車外装備品の配置、砲塔の機銃や迫撃砲の有無など、時期によって細部の変化が見られる(前述のM50の項も参照)。

2012年12月4日火曜日

M4 シャーマン(アメリカ軍中戦車)

情報元:Wikipedia(M4 シャーマン)

M4中戦車とは、第二次世界大戦時にアメリカ合衆国で開発・製造された中戦車である。通称はシャーマン(Sherman)であるが、これはイギリス軍がつけた名称であり、南北戦争の時に北部の将軍だったウィリアム・シャーマンにちなむ。アメリカ軍では非公式の呼び名であったが、兵士達の間では使われることも多かった。
生産に参加した主要企業は11社にも及び、1945年までに全車種で49,234輌が生産された。

優れた信頼性と量産性により、第二次世界大戦の連合国戦車の代名詞になった戦車。アメリカの高い工業力を基盤にして大量生産された。M4という形式名で呼ばれているものの、車体・発動機・砲塔・砲・サスペンション・履帯など多くのバリエーションを持つのは、各生産工場の得意とする生産方式・部品を活かして並行生産させたためであるが、構成部品の規格化により殆どの車体構成部品に互換性を持たせることに成功し、高い信頼性が保たれていた。敵対するナチス・ドイツの特にV号戦車パンターやVI号戦車などに車輌単体での性能こそ劣っていたが、数で圧倒することができた。
北アフリカ及びヨーロッパでの米軍対ナチス・ドイツの戦いに加えて日本軍を敵とする太平洋戦争にも投入された。またイギリス、カナダ、オーストラリアをはじめとするイギリス連邦加盟国の他、ソビエト連邦に4,000輌以上が、自由フランス軍やポーランド亡命政府軍にもレンドリースされている。
「M4の75 / 76 mm 砲で十分」とするAGF(Army Ground Forces 陸軍地上軍)の甘い判断で、M26パーシングの配備が遅らされ、終戦まで連合国軍の主力戦車として活躍した。
第二次世界大戦後も朝鮮戦争や印パ戦争、中東戦争などで使用され、特にイスラエル国防軍はM4の中古・スクラップを大量にかき集めて再生し初期の陸戦力の中核として活用、その後独自の改良により「最強のシャーマン」と呼ばれるM50/M51スーパーシャーマンを生み出している。
第一線を退いた後も装甲回収車などの支援車両に改造され最近まで各国で使用されていた。
M4A3E8型はMSA協定により日本の陸上自衛隊にも供与されて1970年代半ばまで使用され、70年代末には61式戦車と交代するかたちで全車が退役した。
現在ではほとんどの国で引退しているが、パラグアイでは現在でも少数が主力戦車として使用されている。

2012年11月28日水曜日

メルカバ(イスラエル国防軍戦車)

情報元:Wikipedia(メルカバ)

メルカバ(英: Merkava、ヘブライ語: מרכבה(ヘルプ / リンク))は、イスラエルが開発した第三及び第三・五世代主力戦車のシリーズであり、イスラエル国防軍で運用され、イスラエルの特殊な事情を色濃く反映した設計となっている。 メルカバとは、ヘブライ語で騎馬戦車(Chariot)を意味する。

1967年の第三次中東戦争と、フランスからの武器供給停止に直面したイスラエルに対し、イギリスはチーフテンを元にした主力戦車の共同開発を申し出、契約が行われた。しかし、1969年からのアラブ諸国からの圧力と、それに伴うイギリスの対中東戦略の見直しにより、この契約はキャンセルされた。
1973年の第四次中東戦争の際には、アメリカ軍の予備役に編入されていた戦車が提供されていた。この戦争において、イスラエルのような小国は、戦闘において過度の死傷者を出すことに耐えられない、という教訓を得た。 これらの経緯を踏まえ、イスラエルは1970年に独自の主力戦車を開発することを決定する。タル将軍が率いる開発チームは、イスラエルの戦場の独自性とこれまでの教訓に基づき、乗員の保護、生存性を重視した戦車の設計を行った。こうしてイスラエル国産戦車「メルカバ」の開発は、イスラエル政府により1977年5月13日に承認された。
メルカバの開発には、建国以来繰り返された対アラブ戦争における膨大な戦車戦のデータと、多くの戦車、軍用車輌の改良と再生で培ったノウハウやインフラが活用されている。特にセンチュリオン(ショット)の改良における実績は大きく、最初のプロトタイプはセンチュリオンを改造して製作され、ホルストマンサスペンションの採用など影響を受けた部分も大きい。

2012年11月23日金曜日

I号戦車(ドイツ軍軽戦車)

情報元:Wikipedia(I号戦車)

I号戦車(いちごうせんしゃ、Panzerkampfwagen I)はドイツが第一次世界大戦後、初めて量産した戦車である。訓練および生産技術の習得のための軽量・簡易な軽戦車として開発されたが、本来の実戦用戦車であるIII号戦車、IV号戦車の数が揃わず、第二次世界大戦開戦直後のポーランド侵攻作戦等、II号戦車と共に実戦に投入された。
後に同じ制式名称で、全く別設計の「新型」I号戦車も少数生産された。

2012年11月22日木曜日

チャレンジャー2(イギリス陸軍戦車)

情報元:Wikipedia(チャレンジャー2)

チャレンジャー2(FV4034 Challenger 2)はチャレンジャー1の改良型で、イギリス陸軍の現用主力戦車。
2010年現在、チャレンジャー1はすべて退役しており、改良型のチャレンジャー2と交替している。コソボ紛争やボスニア・ヘルツェゴビナ紛争、2003年のイラク戦争などに参戦した。オマーンでも採用され、およそ2035年まで運用する予定と発表されている。中東向け輸出仕様のチャレンジャー2Eと呼ばれる改良型も存在する。

1986年にビッカーズ・ディフェンス・システムズがチャレンジャー1に代わる次期主力戦車として独自開発を始めた。その後の問題で、ビッカーズはイギリス国防省にチャレンジャー2の計画を提出した。1988年12月にイギリス国防省はビッカーズと契約を結び、試作を作るよう9,000万ポンドの支援を行った。
しかし、他社の参入で競争が発生し、M1A2 エイブラムス、レオパルト2、ルクレールなどが候補にあがったが、1991年6月にイギリス国防省は5億2,000万ポンドでチャレンジャー2を127輌と同車の訓練車両13台を発注した。1993年にはオマーンがチャレンジャー2を18輌を注文した。イギリスも翌年の1994年に259輌のチャレンジャー2と9台の訓練車両を追加発注して、8億ポンドを支払った。
これらの生産は、2箇所の工場で1993年から開始され、1994年7月に最初のチャレンジャー2は部隊へ届いた。その後、ビッカーズ・ディフェンス・システムズはロールス・ロイス plc、次いでアルヴィス plcによる買収を経て、2004年以降はアメリカ合衆国に本部を置くBAE システムズ・ランド・アンド・アーマメンツのランド・システムズ・ウェポンズ・アンド・ビークルズ部門によって製造が行われ、下請契約の数は250を超えた。

2012年11月20日火曜日

ルノーB1(フランス重戦車)

情報元:Wikipedia(ルノーB1)

ルノーB1(-ビーいち) B1)とは、第二次世界大戦前にフランスで開発された重戦車。1940年のナチス・ドイツによる西方電撃戦で実戦に参加した。
なお、「シャール B1(Char B1)」とも呼称、表記されるが、“Char”とは英語で言うところの“Chariot”、戦闘馬車のことで、「Char B1」ならば「B1型戦車」の意である。

B1重戦車の原型は1920年代後半にからフランス陸軍で戦車の研究をしていたJ.E.エティエンヌ将軍の「1921年計画」にまでさかのぼる。彼は第一次世界大戦においてフランス軍が使用したシュナイダーCA1やサンシャモン突撃戦車のような歩兵支援用の重砲を搭載したタイプの戦車を提案した。それは47mm級、あるいは75mm級の戦車砲を車体に装備するもので、重量は15t程度を予定していた。陸軍もこのタイプの戦車の採用を決定し、ルノー社をはじめとする5社に対し開発案が示された。
1924年には早くもモックアップが完成しているが、15tという計画重量内に収めることが不可能だと判明し、新たに20tクラスの戦車というように開発案が変更された。1926年1月には3種のモックアップの技術評価試験が行われた結果、新型戦車はFCM社の技術協力の下、ルノー社が主導で開発することになった。
当時の技術のもとでは20t級重戦車の開発は相当に難しかったらしく、紆余曲折の末試作車が完成したのは1929年であり、1931年の終わりまでに試作車3両が完成した。
試作車は次のような設計であった。
車体前部右側に17口径75mm戦車砲SA35および2挺の7.5mm機関銃が装備され、鋳造製砲塔にも2挺の7.5mm機関銃M1931が装備されていた。
装甲板はリベットで接合されていた。しかしこれはリベットの頭に被弾した際にリベットの残りの部分が車内を跳ね回り乗員を殺傷する恐れがあり、防御上不安な部分であった。当時はまだ溶接技術が発達しておらず、リベットで装甲板を固定している戦車に共通する問題であった。
車体に重砲を搭載し、砲塔に対戦車砲を搭載していた。この方式はアメリカのM3中戦車でも見られる。
エンジンは走行中でも点検・整備ができるよう配慮がなされており、燃料タンクは内部にゴムを仕込むことで被弾時に開いた穴を自動的に塞ぐようになっていた。
足回りは完全に装甲板で覆われていた。後輪駆動方式で、ソールプレートの付いた独特の履帯(無限軌道)は車内から張度の調整が可能であった。
試作車は長期間の試験を経たのち1934年5月にようやくB重戦車(“B”はフランス語の“Bataille(=戦闘)”の頭文字から)として制式採用された。同年には生産が開始され、少数が生産された。
試作車と生産型ではいくつかの差異が見られる。砲塔は新型の1名用鋳造砲塔に変更され、武装も30口径47mm戦車砲SA34 1門と、同軸で7.5mm機関銃M1931を1挺装備し、攻撃力が向上した。操向装置も油圧装置を組み込んだ機構を採用し、車体前面に固定されている75mm戦車砲SA35をよりすばやく目標に指向することが可能となった。

2012年11月19日月曜日

T-80(ソビエト連邦戦車)

情報元:Wikipedia(T-80)

T-80(ロシア語:Т-80テー・ヴォースィェミヂスャト;ウクライナ語:Т-80テー・ヴォスィムデスャート)はソビエト連邦で開発された主力戦車である。

精鋭部隊を中心に配備されたT-64が期待に反して欠陥が多かったため、これを改良発展した戦車としてT-80が開発された。そのため、普及型戦車であるT-72とは別に開発された車輌である。
T-80の開発は、T-64にタービンエンジンを搭載したSKB-2の開発に始まった。レニングラード(現在のサンクトペテルブルク)のキーロフ工場で開発されたSKB-2は、改修を経てT-80として量産に移った。1976年にソビエト連邦軍に採用された。

2012年11月16日金曜日

L6/40(イタリア軍軽戦車)

情報元:Wikipedia(L6/40)

L6/40は第二次世界大戦中にイタリア軍で運用された軽戦車である。正式名称はCarro Armato L6/40(6トン級軽戦車40年式)で、Lは軽(Leggero)戦車のクラスを示す。1941年から1942年末までに283輌が生産された。

1930年代、イタリアはL3豆戦車を開発、量産して装甲部隊の基礎を築いたが、無砲塔・軽装甲・弱武装のL3は、偵察用としても力不足なのは30年代末にすでに明らかであった。
フィアット・アンサルド社では、L3を拡大発展させた輸出用戦車として1936年より5t軽戦車を試作していたが、最初の試作車は無砲塔で車体左側に37mm砲を搭載、2つ目の試作車は車体の37mm砲に加えて小砲塔に8mm機銃を連装で搭載、3つ目の試作車は砲塔に37mm砲を備えていた。この5t軽戦車試作3号車が原型となり、L6軽戦車が開発された。
車体の基本的デザインは、砲塔を持つほかはほぼL3豆戦車のままで、ただし足回りは機構を一新、転輪2個のボギー2組を、長大なスイングアームを介してトーションバー・サスペンションで懸架した。接地長を稼ぐため、後部誘導輪も接地する型式であった。L6に先だって採用されたM11/39中戦車の足回りはリーフスプリング型式で、その後も量産されたイタリア製中戦車・重戦車はすべて同型式を踏襲したので、結果的に、L6はイタリア戦車中最も特徴的な足回りを持つことになった。
試作時には武装が決まらず暫定的に砲塔にブレダ8mm機銃連装を搭載したが、生産型では、試作車に比べ大型化した砲塔にブレダ20mm機関砲が搭載された。この砲塔設計は同時期に作られたAB41装甲車にも流用された。
L3豆戦車の代替として開発されたものの、生産は結局開戦後の1941年からとなり、この時にはすでに能力的に見劣りするものとなっていたため、L6軽戦車の生産は1942年末で打ち切られ、その後はセモヴェンテ da 47/32自走砲用に、1943年まで車台のみが生産された。L6軽戦車は主に偵察任務の騎兵師団に配備された。

2012年11月15日木曜日

M2軽戦車(アメリカ陸軍)

情報元:Wikipedia(M2軽戦車)

M2軽戦車(M2けいせんしゃ)とは、アメリカ陸軍の軽戦車。1935年に開発された。T2E1(T2軽戦車を発展させた車両)の量産型であり、初期型のM2A1から最終型のM2A4まで4種類が開発された。大半が訓練用として使用されたが、一部が太平洋戦争で使用された。イギリスにも少数が輸出された。

1935年に、アメリカ陸軍の歩兵科用戦車としてM2軽戦車は開発された。当初はT2E1軽戦車と呼ばれた。これまでに開発したT1戦車、T2軽戦車のほか、イギリスのヴィッカース 6トン戦車の影響を受けていた。最初の生産型M2A1は、主武装としてM2 12.7 mm 機銃1門を1人用の小型砲塔に搭載していたが、わずか10輌で生産終了となった。
代わってM1919 7.62 mm 銃塔を1基追加したM2A2が生産に移された。このような双砲塔の軽戦車は、ソ連のT-26やポーランドの7TPなどが同時期に存在していた。並列配置された2基の砲塔を持つ外観から、当時有名だった巨乳の女優にちなんで「メイ・ウエスト」と兵士たちには呼ばれた。M2A2は239輌が完成した。
その後、スペイン内戦の戦訓から、アメリカ陸軍はより強力な装甲と武装の必要を認識した。1938年に装甲強化とサスペンションの改良をしたM2A3が開発され、1940年には双砲塔をやめて主武装を37 mm 対戦車砲とした最終型M2A4の採用に至った。M2A4では装甲もさらに強化されており、最大装甲25 mm に達している。
しかし、フランス戦での戦訓から、なお一段と強力な戦車が必要であると考えられ、1940年7月にはM2軽戦車をベースとした新型軽戦車の開発が始まっている。この新型軽戦車はM3軽戦車として完成し、1941年3月にM2軽戦車の生産は打ち切られた。最終的な生産数はM2A3が72輌、M2A4が375輌となった。

アメリカ陸軍に配備されたM2軽戦車は、大半が訓練に使用された。少数のM2A4だけが、太平洋戦争中にガダルカナル島の戦いで海兵隊により実戦使用され、その後も1942年中は太平洋戦線の一部に配備された。M2A4はM3軽戦車と同じ部隊で混成使用されたことがあり、似た外観であるものの後部の誘導輪が接地していない点で区別することができる。
このほか、1941年初頭にイギリスから100輌のM2A4の供与が依頼されている。うち36輌が実際に輸出されたが、残りはM3軽戦車が完成したためにキャンセルされた。イギリスに到着した36輌は、4輌がエジプトに送られ、残りはイギリス本土の部隊に配備された。

2012年11月14日水曜日

A7V(ドイツ軍突撃戦車)カラー映像

情報元:Wikipedia(A7V)

突撃戦車 A7V(独:Sturmpanzerwagen A7V)は第一次世界大戦末期の1918年に実戦投入されたドイツで最初の戦車である。膠着状態に陥った塹壕線を突破することを目的として開発された。

イギリス軍のMk.I戦車が初めて実戦に投入されたのは1916年9月15日、ソンム会戦の事であった。Mk.I戦車は局地的には効果を発揮しドイツ軍には衝撃を持って迎えられたが、結果としては膠着状態を打破することは出来ず、協商国の戦線が11 km 余り前進するにとどまった。
しかし、ドイツではこれを受けてドイツ軍最高司令部 (OHL) が戦時省運輸担当第7課 (Abteilung 7 Verkehrswesen des Allgemeinen Kriegsdepartements im Preußischen Kriegsministerium) に同種の戦闘車両の開発を命じた。要求性能は、あらゆる地形に適応したうえで、前部・尾部に1門ずつの主砲と、側面に機関銃を装備して、時速10 km - 12 km で移動し、幅1.5 m の塹壕を突破できる能力である。これを満たす車輌として、重量30トンの車体に80 - 100馬力のエンジンを搭載することとされた。非武装の輸送型では4トンの積載能力が求められた。
1916年11月13日に、ダイムラー社など有力企業数社と、ドイツ陸軍将校によって構成された交通技術試験委員会 (Verkehrstechnische Prüfungskommission (VPK))および戦時省のあいだに、後に A7V となる全地形走行車両 (Geländespanzerwagen) の開発に関する契約が結ばれ、同年12月22日には開発予算が認められた。これにより、研究段階に止まっていたドイツの装甲戦闘車輛開発が具体化に動き出した。設計責任者はヨーゼフ・フォルマー技師とされた。
開発にあたり、アメリカのホルト社(現在のキャタピラー社)のドイツ国内代理人であるヘール・シュタイナーがアドバイザーとして呼ばれた。またフォルマー技師の提案により、コスト低減と開発を急ぐためにブダペストでライセンス生産されていたホルト社の農業用トラクターが購入された。研究はこれを分解調査するところから始まった。ホルトトラクターは先んじて戦車開発を行っていたイギリスやフランスも参考にしていたものであり、この車輌の構造そのままでは不整地走行能力が不足していたため、大型化とサスペンションの改良が行われた。
1917年1月に最初のプロトタイプが完成したが、機密を維持するために開発部門の頭文字を取った A7V がそのまま名称となった。これには、ヨーゼフ・フォルマー(Joseph Vollmer)からVの字が取られたとも言われている。1917年4月にはシャーシのみの状態で走行試験を開始した。
1917年5月14日にドイツ国内マインツ近くの演習場で木製のボディを被せた試作車輛のデモンストレーションを見学したドイツ軍最高司令部は、さらに10輌の追加生産を命じた。これら20輌の A7V でもって、2個戦車隊(各5輌)を編成して残る10輌は予備とすることを決定した。
生産型には尾部の砲は搭載されず、木製の試作車輛にあった尾部の超壕用ガイド(ルノー FT-17の尾部と同様)も取り付けられなかった。その後も繰り返しテストが行われたが、エンジンの出力不足や冷却などは根本的な解決に至らなかったようだ。
基本となる生産はベルリンのダイムラー社が行い、装甲板はエッセンのクルップ社とステフェンス&ネーレ社、ギアボックスはフランクフルトのアドラー社が担当した。最初の車体は1917年9月に完成し、武装なども施された車輌が納入されたのは1917年10月1日であった。1917年12月1日には A7V(戦車型)が10輌と、同じシャーシを利用した装甲のない兵員・弾薬輸送車型 (Überlandewagen) 90輌の計100輌が発注された。これを1918年に予定されていた春季攻勢に間に合わせるように求められていたが、ダイムラー社の生産能力は月産5輌程度で、参謀本部もUボートや飛行機の生産に資源や工業力を注力させていたため、休戦までに生産されたのは、戦車型が試作もあわせて22輌(524号車はA7V-Uの試作に流用されたため実際は21輌)、輸送型が30輌程度にとどまった。

2012年11月13日火曜日

A7V(ドイツ軍突撃戦車)

情報元:Wikipedia(A7V)

突撃戦車 A7V(独:Sturmpanzerwagen A7V)は第一次世界大戦末期の1918年に実戦投入されたドイツで最初の戦車である。膠着状態に陥った塹壕線を突破することを目的として開発された。

イギリス軍のMk.I戦車が初めて実戦に投入されたのは1916年9月15日、ソンム会戦の事であった。Mk.I戦車は局地的には効果を発揮しドイツ軍には衝撃を持って迎えられたが、結果としては膠着状態を打破することは出来ず、協商国の戦線が11 km 余り前進するにとどまった。
しかし、ドイツではこれを受けてドイツ軍最高司令部 (OHL) が戦時省運輸担当第7課 (Abteilung 7 Verkehrswesen des Allgemeinen Kriegsdepartements im Preußischen Kriegsministerium) に同種の戦闘車両の開発を命じた。要求性能は、あらゆる地形に適応したうえで、前部・尾部に1門ずつの主砲と、側面に機関銃を装備して、時速10 km - 12 km で移動し、幅1.5 m の塹壕を突破できる能力である。これを満たす車輌として、重量30トンの車体に80 - 100馬力のエンジンを搭載することとされた。非武装の輸送型では4トンの積載能力が求められた。
1916年11月13日に、ダイムラー社など有力企業数社と、ドイツ陸軍将校によって構成された交通技術試験委員会 (Verkehrstechnische Prüfungskommission (VPK))および戦時省のあいだに、後に A7V となる全地形走行車両 (Geländespanzerwagen) の開発に関する契約が結ばれ、同年12月22日には開発予算が認められた。これにより、研究段階に止まっていたドイツの装甲戦闘車輛開発が具体化に動き出した。設計責任者はヨーゼフ・フォルマー技師とされた。
開発にあたり、アメリカのホルト社(現在のキャタピラー社)のドイツ国内代理人であるヘール・シュタイナーがアドバイザーとして呼ばれた。またフォルマー技師の提案により、コスト低減と開発を急ぐためにブダペストでライセンス生産されていたホルト社の農業用トラクターが購入された。研究はこれを分解調査するところから始まった。ホルトトラクターは先んじて戦車開発を行っていたイギリスやフランスも参考にしていたものであり、この車輌の構造そのままでは不整地走行能力が不足していたため、大型化とサスペンションの改良が行われた。
1917年1月に最初のプロトタイプが完成したが、機密を維持するために開発部門の頭文字を取った A7V がそのまま名称となった。これには、ヨーゼフ・フォルマー(Joseph Vollmer)からVの字が取られたとも言われている。1917年4月にはシャーシのみの状態で走行試験を開始した。
1917年5月14日にドイツ国内マインツ近くの演習場で木製のボディを被せた試作車輛のデモンストレーションを見学したドイツ軍最高司令部は、さらに10輌の追加生産を命じた。これら20輌の A7V でもって、2個戦車隊(各5輌)を編成して残る10輌は予備とすることを決定した。
生産型には尾部の砲は搭載されず、木製の試作車輛にあった尾部の超壕用ガイド(ルノー FT-17の尾部と同様)も取り付けられなかった。その後も繰り返しテストが行われたが、エンジンの出力不足や冷却などは根本的な解決に至らなかったようだ。
基本となる生産はベルリンのダイムラー社が行い、装甲板はエッセンのクルップ社とステフェンス&ネーレ社、ギアボックスはフランクフルトのアドラー社が担当した。最初の車体は1917年9月に完成し、武装なども施された車輌が納入されたのは1917年10月1日であった。1917年12月1日には A7V(戦車型)が10輌と、同じシャーシを利用した装甲のない兵員・弾薬輸送車型 (Überlandewagen) 90輌の計100輌が発注された。これを1918年に予定されていた春季攻勢に間に合わせるように求められていたが、ダイムラー社の生産能力は月産5輌程度で、参謀本部もUボートや飛行機の生産に資源や工業力を注力させていたため、休戦までに生産されたのは、戦車型が試作もあわせて22輌(524号車はA7V-Uの試作に流用されたため実際は21輌)、輸送型が30輌程度にとどまった。

2012年11月12日月曜日

M13/40(イタリア軍中戦車)

情報元:Wikipedia(M13/40)

M13/40は第二次世界大戦中のイタリアの中戦車である(MはMedio=「中」の略。13/40の13は13t級を意味し、40は1940年に制式化されたことを意味する)。先に開発されたM11/39を改良した戦車である。

1940年にイタリア陸軍機甲総監に就任したフェロレト将軍は装甲車両の近代化計画を推進した。M13 はその計画の中核戦車で、M11/39 を改設計したものである。
M11/39 は砲搭に機銃、車体前面に砲を搭載する自走砲的なスタイルであったために、射界の狭さなどが欠点であったが、主砲の回転砲塔への搭載によってそれを改善した。また主砲はより性能が向上した 47mm 砲とし、装甲厚も最大 40mm へと増加した。連装機関銃は車体へ移され、乗員の数も 1人増えて 4人となった。エンジン出力は105hpから125hpに増加したが、これでも重量の増加に対し不足気味であった。
こうして速力を除けば完全に M11/39 を凌駕した性能を持ったM13は 1940年に M13/40 として制式化された。
しかし、初期型が配備された北アフリカ戦線では砂漠用防砂フィルターが装備されていなかった車両が多かったため、エンジンの故障が多発し、一個中隊がしまいには一個小隊規模になってしまうありさまだった。また、砲塔に換気装置を持たず逆流した発射ガスが充満するため、戦闘中にハッチを空けておく必要があった。その後、エンジン出力125hpから145hpに強化されたM14/41が登場。これはラジエーターグリルのスリットが車体に対して縦方向だったものが横方向に変更された以外、外見上M13/40との区別がつかない。(しかも初期の物はM13/40と同じ。)
性能に関しては1941年ごろまでは第一線で運用できるレベルだったがそのあとは徐々に優位性が奪われていく事になる。M13/40単体では 800輌程度が生産されたが、車台は自走砲にも使用されたものを含めると 2,000輌近くが生産されている。
M13/40 は足回りに問題はあったが、車台は自走砲に使用されるなど名実共にイタリア軍戦車戦力の主力であった。
余談だがこの M13も M11と同じくオーストラリア軍に鹵獲され、識別のためカンガルーのシルエットをペイントのうえ使用され、同じタイプの戦車が撃ち合うという事態が発生している。

2012年11月11日日曜日

M1エイブラムス(アメリカ陸軍及び海兵隊)

情報元:Wikipedia(M1エイブラムス)

M1 エイブラムス(M1 Abrams)は、クライスラー社(現ジェネラル・ダイナミクス社)が開発した主力戦車である。
エイブラムスの名は、この戦車の開発を推進した人物であり、バルジの戦いの英雄でもあるクレイトン・エイブラムス大将に由来する。

M1エイブラムスは、M60パットンの後継として1970年代に西ドイツと共同開発を進めていたMBT-70計画の頓挫により、新たにアメリカ単独で開発し、1980年に正式採用された戦後第3世代主力戦車である。主に、アメリカ陸軍及びアメリカ海兵隊が採用した。
特徴として、当時主流であったディーゼルエンジンではなく、ガスタービンエンジンを採用している点が挙げられる。また、当時としては最先端機器を用いた高度な射撃統制装置 (FCS) を採用した事で、高い命中率を誇る。主砲は西側第2世代主力戦車の標準装備と言える51口径105mmライフル砲M68A1を採用した。
M1エイブラムスは従来のアメリカ戦車と同様に発展余裕に富んだ設計で、制式化後も度重なる改良が施された事も特筆すべき点である。現在では44口径120mm滑腔砲M256を搭載したM1A1や、更に改修を加え第3.5世代主力戦車に分類されるM1A2が運用されている。
湾岸戦争やイラク戦争といった実戦も経験し、現在、世界最高水準の戦車であると世界的に評価されている。

2012年11月10日土曜日

レオパルト2(ドイツ陸軍)

情報元:Wikipedia(レオパルト2)

レオパルト2(Leopard 2)は、西ドイツが開発した第3世代主力戦車である。製造にはクラウス=マッファイ社を中心に複数の企業が携わっている。

『レオパルド』と表記されることがしばしばあるが、ドイツ語では語尾のdは濁らないので、原音に忠実に日本語表記すれば、『レオパルト』が正しい。現場ではレオパルト・ツヴァイ"zwei"ではなく、レオパート・ツヴォー"zwo"と発音されることが多い。これは「3」を意味する、ドライ"drei"との聞き間違いを避けるために、電話などで使われる発音と同様である。

レオパルト1は1965年に登場したが、そのころからソ連戦車の進歩に対応するため、120 mm 滑腔砲を採用した強化版が検討されていた。しかしこれはアメリカとのMBT-70の共同開発プロジェクトを推進するためにキャンセルされた。MBT-70は革新的な設計であったが、想定よりコストが増加し、西ドイツ(当時)は1969年にプロジェクトから撤退した。
純国産の新式戦車の開発は1970年にクラウス・マッファイ社によって始められた。1年後に本戦車のベースとして、MBT-70ではなく、1960年代後半に存在した金メッキのレオパルトプロジェクトが選択された。1971年には新戦車の名称はレオパルト2と決定され、元のレオパルト戦車はレオパルト1となった。同年17輌の試作車が発注され、16輌が製造された。最大車重は50トンとされた。
1973年にアメリカは試作7号車を購入・テストし、1974年12月11日にはアメリカと新型戦車の共同生産について覚書が交わされた。第四次中東戦争の戦訓から、傾斜角をつけた中空装甲を多用した試作車よりはるかに強力な装甲が求められた。その結果、重量は60トン級になった。
14番試作砲塔は新しい装甲の形状をテストするために改造され、ほぼ垂直のスペースド・アーマー(中空装甲)の採用と、砲塔後部の弾薬格納庫によってレオパルト1よりはるかに大型の箱型砲塔となった。このようにレオパルト2はしばしば言われるようなチョバム・アーマーではなく当初は中空装甲を採用した。
試作14号車はまたラインメタルの120 mm 滑腔砲を採用した。アメリカのM1エイブラムスもやがて同じ砲を採用することとなった。その後、2輌の試作車体と3基の試作砲塔が発注された。20番試作砲塔は105 mm 砲 L7とヒューズ社の射撃管制装置を装備し、19番試作砲塔は同じ射撃管制装置に120 mm 砲を装備した。
21番試作砲塔はヒューズ社とクルップ社の共同開発の射撃管制装置と120 mm 砲を装備していた。
1976年夏に19番試作砲塔と車体が、20番の試作車体と装甲防御をテストするための特殊車両と共にアメリカに送られた。この試作車は簡略化された射撃管制装置を装備していたため、レオパルト2AV(簡略化〈austere〉バージョン)と呼ばれた。同年9月1日からレオパルト2とXM1(M1エイブラムスの試作車)との比較テストがアバディーン性能試験場で開始され、同年12月まで続いた。アメリカ陸軍はレオパルト2とXM1は火力と機動力は同等だが、XM1の装甲はより優れていると報告した(砲は同じ105 mm L7砲を装備していたものと思われる)。今日、成型炸薬弾に対してはこの報告は事実であると判明しており、徹甲弾に対してはレオパルト2の装甲はXM1のおよそ2倍の強度を発揮した(XM1の350 mm 厚相当に対して650 mm 厚相当)。
レオパルト2の多燃料対応型ディーゼルエンジンは騒音は大きかったが発熱量は少なく、より信頼性が高く、燃費も良かった。20番の試作車体は砲塔の代わりにダミーウェイトを取り付けられて試験された。比較テストを終了した車体は全てドイツに送り返されたが、19番の試作砲塔のみ残されて7番の試作車体と組み合わされると共に、ラインメタル120 mm 砲に換装された。3月までのテストでこの砲はM1エイブラムスの初期型が搭載していた105 mm L7砲よりはるかに優れていると判明し、引き続いて行われたNATO軍の戦車射撃競技会でも同じ結果が確認された。
1977年1月にドイツは3輌の車体と2基の砲塔からなる量産試作車を発注したが、これらは車体前面により強化された装甲を装備していた。続いて1977年9月に1,800輌のレオパルト2が発注され、5つの量産バッチに分けて製造された。最初のバッチは1979年10月25日に納入された。

2012年11月9日金曜日

八九式中戦車(大日本帝国陸軍)

情報元:Wikipedia(八九式中戦車)

先の試製1号戦車の成功を受け、戦車の国産化に自信を深めた陸軍であったが、試製1号戦車が20 t近い大重量となってしまったために、新たに10 t級の軽戦車を開発することを決定した。
試製1号戦車の成果を元に、1927年(昭和2年)に輸入したイギリスのビッカースC型中戦車を参考・模倣・改良して開発された。
開発は陸軍技術本部第四研究所で1928年(昭和3年)3月に始まり、同年4月に設計要目が決まり、同年8月に概略設計図面ができあがり、直ちに陸軍造兵廠大阪工廠に発注され、1929年(昭和4年)4月に試作車(試製八九式軽戦車1号機)が完成した。試作車は以後、秘匿呼称のイ号とも呼ばれた。以後の量産は改修型も含め、民間企業である三菱航空機(1928年(昭和3年)に三菱内燃機から改称。後の1934年(昭和9年)に三菱造船と合併し三菱重工業となる)にて行われた。1929年(昭和4年)12月1日に三菱航空機は、戦車工場として大井工場を新設し、名古屋製作所芝浦分工場と併せて東京製作所とした。1931年(昭和6年)の満州事変後、日本製鋼所と神戸製鋼所と汽車製造株式会社も生産に関わるようになった。1937年(昭和12年)には下丸子に三菱重工業東京機器製作所丸子工場が新設され、1938年(昭和13年)に陸軍指定の戦車専門工場として稼働し、日本の戦車の6割を生産するようになる。当時から下丸子は一大工業地域であり、主な工場として、1928年(昭和3年)に三井精機の前身である津上製作所(工作機械製造)、1934年(昭和9年)に北辰電機(光学工業)、1935年(昭和10年)に日本精工kk(ボールベアリング製造)、1937年(昭和12年)にキヤノン光学kkなどが移転してきた。これらの工場の多くは、1943年(昭和18年)に軍需会社法により軍需工場に指定された。
1929年(昭和4年)10月には東京~青森間660kmの長距離運行試験に成功し、同年同月、試作車の完成年を皇紀で表した皇紀2589年から、八九式軽戦車として仮制式化された。
最初の試作車は、予定通り重量が9.8 tにおさまったため軽戦車に分類されたが、部隊の運用経験から度々改修が施され、最終的な完成形では車体重量が11.8 t に増加した結果、分類基準の10 tを超えたために1934年(昭和9年)に中戦車に再分類され、八九式中戦車と呼ばれるようになった。この改修によって機動性は悪化してしまっている。
後の九七式中戦車 チハの頃から2文字の秘匿名称を付けるようになり、さかのぼって八九式中戦車にも付けられた。甲型はチイ、乙型はチロとされている。この「チ」は中戦車(チュウセンシャ)、「イ」はイロハ順で一番目を意味する。しかし命名が遅過ぎたためか、実際に現場でチイ、チロと呼ばれることはなかったようである。 生産数は甲型が1934年(昭和9年)までに220輌、乙型が1935年(昭和10年)から1939年(昭和14年)にかけて184輌以上である(甲型が1930年(昭和5年)から1935年(昭和10年)にかけて283輌、乙型が1936年(昭和11年)から1937年(昭和12年)にかけて126輌、総計409輌との説あり)。

2012年11月8日木曜日

10式戦車(陸上自衛隊)

情報元:Wikipedia(10式戦車)

10式戦車(ひとまるしきせんしゃ)は、日本の主力戦車 (MBT)。自衛隊が運用する国産戦車としては4代目となる。平成21年(2009年)に制式化された。

陸上自衛隊の最新の国産主力戦車であり、国産の自衛隊装備品としては四代目となる。自衛隊は第三世代戦車であった先代の90式戦車を上回る、第四世代戦車と定義している。
開発は防衛省技術研究本部、試作・生産は三菱重工業が担当した。戦闘力の総合化、火力・機動力・防護力の向上、小型・軽量化などを達成し、2009年(平成21年)12月に「10式」と命名された。
主砲には日本製鋼所の国産44口径120mm滑腔砲(軽量高腔圧砲身)を備え、新型の国産徹甲弾の使用により貫徹力を向上させている。また、90式戦車と同様に自動装填装置を採用し、乗員は車長・砲手・操縦手の3名である。小型・軽量化と応答性・敏捷性の向上のため、水冷4サイクルV型8気筒ディーゼル機関と油圧機械式無段階自動変速操向機 (HMT) を組み合わせた動力装置(パワーパック)を搭載する。また、全国的な配備・運用のために車体を小型軽量化したことで重量は約44tに抑えられており、更に着脱が容易なモジュール型装甲を実装している。日本の戦車・戦闘車両としては初めてC4Iシステムを装備したことも特徴である。
平成22年度(2010年)より調達が開始されており、平成23年度(2011年)より富士教導団戦車教導隊などから順次部隊配備される。平成24年(2012年)に量産第1号車が富士学校機甲科部に引き渡された。