2012年11月28日水曜日

メルカバ(イスラエル国防軍戦車)

情報元:Wikipedia(メルカバ)

メルカバ(英: Merkava、ヘブライ語: מרכבה(ヘルプ / リンク))は、イスラエルが開発した第三及び第三・五世代主力戦車のシリーズであり、イスラエル国防軍で運用され、イスラエルの特殊な事情を色濃く反映した設計となっている。 メルカバとは、ヘブライ語で騎馬戦車(Chariot)を意味する。

1967年の第三次中東戦争と、フランスからの武器供給停止に直面したイスラエルに対し、イギリスはチーフテンを元にした主力戦車の共同開発を申し出、契約が行われた。しかし、1969年からのアラブ諸国からの圧力と、それに伴うイギリスの対中東戦略の見直しにより、この契約はキャンセルされた。
1973年の第四次中東戦争の際には、アメリカ軍の予備役に編入されていた戦車が提供されていた。この戦争において、イスラエルのような小国は、戦闘において過度の死傷者を出すことに耐えられない、という教訓を得た。 これらの経緯を踏まえ、イスラエルは1970年に独自の主力戦車を開発することを決定する。タル将軍が率いる開発チームは、イスラエルの戦場の独自性とこれまでの教訓に基づき、乗員の保護、生存性を重視した戦車の設計を行った。こうしてイスラエル国産戦車「メルカバ」の開発は、イスラエル政府により1977年5月13日に承認された。
メルカバの開発には、建国以来繰り返された対アラブ戦争における膨大な戦車戦のデータと、多くの戦車、軍用車輌の改良と再生で培ったノウハウやインフラが活用されている。特にセンチュリオン(ショット)の改良における実績は大きく、最初のプロトタイプはセンチュリオンを改造して製作され、ホルストマンサスペンションの採用など影響を受けた部分も大きい。

2012年11月23日金曜日

I号戦車(ドイツ軍軽戦車)

情報元:Wikipedia(I号戦車)

I号戦車(いちごうせんしゃ、Panzerkampfwagen I)はドイツが第一次世界大戦後、初めて量産した戦車である。訓練および生産技術の習得のための軽量・簡易な軽戦車として開発されたが、本来の実戦用戦車であるIII号戦車、IV号戦車の数が揃わず、第二次世界大戦開戦直後のポーランド侵攻作戦等、II号戦車と共に実戦に投入された。
後に同じ制式名称で、全く別設計の「新型」I号戦車も少数生産された。

2012年11月22日木曜日

チャレンジャー2(イギリス陸軍戦車)

情報元:Wikipedia(チャレンジャー2)

チャレンジャー2(FV4034 Challenger 2)はチャレンジャー1の改良型で、イギリス陸軍の現用主力戦車。
2010年現在、チャレンジャー1はすべて退役しており、改良型のチャレンジャー2と交替している。コソボ紛争やボスニア・ヘルツェゴビナ紛争、2003年のイラク戦争などに参戦した。オマーンでも採用され、およそ2035年まで運用する予定と発表されている。中東向け輸出仕様のチャレンジャー2Eと呼ばれる改良型も存在する。

1986年にビッカーズ・ディフェンス・システムズがチャレンジャー1に代わる次期主力戦車として独自開発を始めた。その後の問題で、ビッカーズはイギリス国防省にチャレンジャー2の計画を提出した。1988年12月にイギリス国防省はビッカーズと契約を結び、試作を作るよう9,000万ポンドの支援を行った。
しかし、他社の参入で競争が発生し、M1A2 エイブラムス、レオパルト2、ルクレールなどが候補にあがったが、1991年6月にイギリス国防省は5億2,000万ポンドでチャレンジャー2を127輌と同車の訓練車両13台を発注した。1993年にはオマーンがチャレンジャー2を18輌を注文した。イギリスも翌年の1994年に259輌のチャレンジャー2と9台の訓練車両を追加発注して、8億ポンドを支払った。
これらの生産は、2箇所の工場で1993年から開始され、1994年7月に最初のチャレンジャー2は部隊へ届いた。その後、ビッカーズ・ディフェンス・システムズはロールス・ロイス plc、次いでアルヴィス plcによる買収を経て、2004年以降はアメリカ合衆国に本部を置くBAE システムズ・ランド・アンド・アーマメンツのランド・システムズ・ウェポンズ・アンド・ビークルズ部門によって製造が行われ、下請契約の数は250を超えた。

2012年11月20日火曜日

ルノーB1(フランス重戦車)

情報元:Wikipedia(ルノーB1)

ルノーB1(-ビーいち) B1)とは、第二次世界大戦前にフランスで開発された重戦車。1940年のナチス・ドイツによる西方電撃戦で実戦に参加した。
なお、「シャール B1(Char B1)」とも呼称、表記されるが、“Char”とは英語で言うところの“Chariot”、戦闘馬車のことで、「Char B1」ならば「B1型戦車」の意である。

B1重戦車の原型は1920年代後半にからフランス陸軍で戦車の研究をしていたJ.E.エティエンヌ将軍の「1921年計画」にまでさかのぼる。彼は第一次世界大戦においてフランス軍が使用したシュナイダーCA1やサンシャモン突撃戦車のような歩兵支援用の重砲を搭載したタイプの戦車を提案した。それは47mm級、あるいは75mm級の戦車砲を車体に装備するもので、重量は15t程度を予定していた。陸軍もこのタイプの戦車の採用を決定し、ルノー社をはじめとする5社に対し開発案が示された。
1924年には早くもモックアップが完成しているが、15tという計画重量内に収めることが不可能だと判明し、新たに20tクラスの戦車というように開発案が変更された。1926年1月には3種のモックアップの技術評価試験が行われた結果、新型戦車はFCM社の技術協力の下、ルノー社が主導で開発することになった。
当時の技術のもとでは20t級重戦車の開発は相当に難しかったらしく、紆余曲折の末試作車が完成したのは1929年であり、1931年の終わりまでに試作車3両が完成した。
試作車は次のような設計であった。
車体前部右側に17口径75mm戦車砲SA35および2挺の7.5mm機関銃が装備され、鋳造製砲塔にも2挺の7.5mm機関銃M1931が装備されていた。
装甲板はリベットで接合されていた。しかしこれはリベットの頭に被弾した際にリベットの残りの部分が車内を跳ね回り乗員を殺傷する恐れがあり、防御上不安な部分であった。当時はまだ溶接技術が発達しておらず、リベットで装甲板を固定している戦車に共通する問題であった。
車体に重砲を搭載し、砲塔に対戦車砲を搭載していた。この方式はアメリカのM3中戦車でも見られる。
エンジンは走行中でも点検・整備ができるよう配慮がなされており、燃料タンクは内部にゴムを仕込むことで被弾時に開いた穴を自動的に塞ぐようになっていた。
足回りは完全に装甲板で覆われていた。後輪駆動方式で、ソールプレートの付いた独特の履帯(無限軌道)は車内から張度の調整が可能であった。
試作車は長期間の試験を経たのち1934年5月にようやくB重戦車(“B”はフランス語の“Bataille(=戦闘)”の頭文字から)として制式採用された。同年には生産が開始され、少数が生産された。
試作車と生産型ではいくつかの差異が見られる。砲塔は新型の1名用鋳造砲塔に変更され、武装も30口径47mm戦車砲SA34 1門と、同軸で7.5mm機関銃M1931を1挺装備し、攻撃力が向上した。操向装置も油圧装置を組み込んだ機構を採用し、車体前面に固定されている75mm戦車砲SA35をよりすばやく目標に指向することが可能となった。

2012年11月19日月曜日

T-80(ソビエト連邦戦車)

情報元:Wikipedia(T-80)

T-80(ロシア語:Т-80テー・ヴォースィェミヂスャト;ウクライナ語:Т-80テー・ヴォスィムデスャート)はソビエト連邦で開発された主力戦車である。

精鋭部隊を中心に配備されたT-64が期待に反して欠陥が多かったため、これを改良発展した戦車としてT-80が開発された。そのため、普及型戦車であるT-72とは別に開発された車輌である。
T-80の開発は、T-64にタービンエンジンを搭載したSKB-2の開発に始まった。レニングラード(現在のサンクトペテルブルク)のキーロフ工場で開発されたSKB-2は、改修を経てT-80として量産に移った。1976年にソビエト連邦軍に採用された。

2012年11月16日金曜日

L6/40(イタリア軍軽戦車)

情報元:Wikipedia(L6/40)

L6/40は第二次世界大戦中にイタリア軍で運用された軽戦車である。正式名称はCarro Armato L6/40(6トン級軽戦車40年式)で、Lは軽(Leggero)戦車のクラスを示す。1941年から1942年末までに283輌が生産された。

1930年代、イタリアはL3豆戦車を開発、量産して装甲部隊の基礎を築いたが、無砲塔・軽装甲・弱武装のL3は、偵察用としても力不足なのは30年代末にすでに明らかであった。
フィアット・アンサルド社では、L3を拡大発展させた輸出用戦車として1936年より5t軽戦車を試作していたが、最初の試作車は無砲塔で車体左側に37mm砲を搭載、2つ目の試作車は車体の37mm砲に加えて小砲塔に8mm機銃を連装で搭載、3つ目の試作車は砲塔に37mm砲を備えていた。この5t軽戦車試作3号車が原型となり、L6軽戦車が開発された。
車体の基本的デザインは、砲塔を持つほかはほぼL3豆戦車のままで、ただし足回りは機構を一新、転輪2個のボギー2組を、長大なスイングアームを介してトーションバー・サスペンションで懸架した。接地長を稼ぐため、後部誘導輪も接地する型式であった。L6に先だって採用されたM11/39中戦車の足回りはリーフスプリング型式で、その後も量産されたイタリア製中戦車・重戦車はすべて同型式を踏襲したので、結果的に、L6はイタリア戦車中最も特徴的な足回りを持つことになった。
試作時には武装が決まらず暫定的に砲塔にブレダ8mm機銃連装を搭載したが、生産型では、試作車に比べ大型化した砲塔にブレダ20mm機関砲が搭載された。この砲塔設計は同時期に作られたAB41装甲車にも流用された。
L3豆戦車の代替として開発されたものの、生産は結局開戦後の1941年からとなり、この時にはすでに能力的に見劣りするものとなっていたため、L6軽戦車の生産は1942年末で打ち切られ、その後はセモヴェンテ da 47/32自走砲用に、1943年まで車台のみが生産された。L6軽戦車は主に偵察任務の騎兵師団に配備された。

2012年11月15日木曜日

M2軽戦車(アメリカ陸軍)

情報元:Wikipedia(M2軽戦車)

M2軽戦車(M2けいせんしゃ)とは、アメリカ陸軍の軽戦車。1935年に開発された。T2E1(T2軽戦車を発展させた車両)の量産型であり、初期型のM2A1から最終型のM2A4まで4種類が開発された。大半が訓練用として使用されたが、一部が太平洋戦争で使用された。イギリスにも少数が輸出された。

1935年に、アメリカ陸軍の歩兵科用戦車としてM2軽戦車は開発された。当初はT2E1軽戦車と呼ばれた。これまでに開発したT1戦車、T2軽戦車のほか、イギリスのヴィッカース 6トン戦車の影響を受けていた。最初の生産型M2A1は、主武装としてM2 12.7 mm 機銃1門を1人用の小型砲塔に搭載していたが、わずか10輌で生産終了となった。
代わってM1919 7.62 mm 銃塔を1基追加したM2A2が生産に移された。このような双砲塔の軽戦車は、ソ連のT-26やポーランドの7TPなどが同時期に存在していた。並列配置された2基の砲塔を持つ外観から、当時有名だった巨乳の女優にちなんで「メイ・ウエスト」と兵士たちには呼ばれた。M2A2は239輌が完成した。
その後、スペイン内戦の戦訓から、アメリカ陸軍はより強力な装甲と武装の必要を認識した。1938年に装甲強化とサスペンションの改良をしたM2A3が開発され、1940年には双砲塔をやめて主武装を37 mm 対戦車砲とした最終型M2A4の採用に至った。M2A4では装甲もさらに強化されており、最大装甲25 mm に達している。
しかし、フランス戦での戦訓から、なお一段と強力な戦車が必要であると考えられ、1940年7月にはM2軽戦車をベースとした新型軽戦車の開発が始まっている。この新型軽戦車はM3軽戦車として完成し、1941年3月にM2軽戦車の生産は打ち切られた。最終的な生産数はM2A3が72輌、M2A4が375輌となった。

アメリカ陸軍に配備されたM2軽戦車は、大半が訓練に使用された。少数のM2A4だけが、太平洋戦争中にガダルカナル島の戦いで海兵隊により実戦使用され、その後も1942年中は太平洋戦線の一部に配備された。M2A4はM3軽戦車と同じ部隊で混成使用されたことがあり、似た外観であるものの後部の誘導輪が接地していない点で区別することができる。
このほか、1941年初頭にイギリスから100輌のM2A4の供与が依頼されている。うち36輌が実際に輸出されたが、残りはM3軽戦車が完成したためにキャンセルされた。イギリスに到着した36輌は、4輌がエジプトに送られ、残りはイギリス本土の部隊に配備された。

2012年11月14日水曜日

A7V(ドイツ軍突撃戦車)カラー映像

情報元:Wikipedia(A7V)

突撃戦車 A7V(独:Sturmpanzerwagen A7V)は第一次世界大戦末期の1918年に実戦投入されたドイツで最初の戦車である。膠着状態に陥った塹壕線を突破することを目的として開発された。

イギリス軍のMk.I戦車が初めて実戦に投入されたのは1916年9月15日、ソンム会戦の事であった。Mk.I戦車は局地的には効果を発揮しドイツ軍には衝撃を持って迎えられたが、結果としては膠着状態を打破することは出来ず、協商国の戦線が11 km 余り前進するにとどまった。
しかし、ドイツではこれを受けてドイツ軍最高司令部 (OHL) が戦時省運輸担当第7課 (Abteilung 7 Verkehrswesen des Allgemeinen Kriegsdepartements im Preußischen Kriegsministerium) に同種の戦闘車両の開発を命じた。要求性能は、あらゆる地形に適応したうえで、前部・尾部に1門ずつの主砲と、側面に機関銃を装備して、時速10 km - 12 km で移動し、幅1.5 m の塹壕を突破できる能力である。これを満たす車輌として、重量30トンの車体に80 - 100馬力のエンジンを搭載することとされた。非武装の輸送型では4トンの積載能力が求められた。
1916年11月13日に、ダイムラー社など有力企業数社と、ドイツ陸軍将校によって構成された交通技術試験委員会 (Verkehrstechnische Prüfungskommission (VPK))および戦時省のあいだに、後に A7V となる全地形走行車両 (Geländespanzerwagen) の開発に関する契約が結ばれ、同年12月22日には開発予算が認められた。これにより、研究段階に止まっていたドイツの装甲戦闘車輛開発が具体化に動き出した。設計責任者はヨーゼフ・フォルマー技師とされた。
開発にあたり、アメリカのホルト社(現在のキャタピラー社)のドイツ国内代理人であるヘール・シュタイナーがアドバイザーとして呼ばれた。またフォルマー技師の提案により、コスト低減と開発を急ぐためにブダペストでライセンス生産されていたホルト社の農業用トラクターが購入された。研究はこれを分解調査するところから始まった。ホルトトラクターは先んじて戦車開発を行っていたイギリスやフランスも参考にしていたものであり、この車輌の構造そのままでは不整地走行能力が不足していたため、大型化とサスペンションの改良が行われた。
1917年1月に最初のプロトタイプが完成したが、機密を維持するために開発部門の頭文字を取った A7V がそのまま名称となった。これには、ヨーゼフ・フォルマー(Joseph Vollmer)からVの字が取られたとも言われている。1917年4月にはシャーシのみの状態で走行試験を開始した。
1917年5月14日にドイツ国内マインツ近くの演習場で木製のボディを被せた試作車輛のデモンストレーションを見学したドイツ軍最高司令部は、さらに10輌の追加生産を命じた。これら20輌の A7V でもって、2個戦車隊(各5輌)を編成して残る10輌は予備とすることを決定した。
生産型には尾部の砲は搭載されず、木製の試作車輛にあった尾部の超壕用ガイド(ルノー FT-17の尾部と同様)も取り付けられなかった。その後も繰り返しテストが行われたが、エンジンの出力不足や冷却などは根本的な解決に至らなかったようだ。
基本となる生産はベルリンのダイムラー社が行い、装甲板はエッセンのクルップ社とステフェンス&ネーレ社、ギアボックスはフランクフルトのアドラー社が担当した。最初の車体は1917年9月に完成し、武装なども施された車輌が納入されたのは1917年10月1日であった。1917年12月1日には A7V(戦車型)が10輌と、同じシャーシを利用した装甲のない兵員・弾薬輸送車型 (Überlandewagen) 90輌の計100輌が発注された。これを1918年に予定されていた春季攻勢に間に合わせるように求められていたが、ダイムラー社の生産能力は月産5輌程度で、参謀本部もUボートや飛行機の生産に資源や工業力を注力させていたため、休戦までに生産されたのは、戦車型が試作もあわせて22輌(524号車はA7V-Uの試作に流用されたため実際は21輌)、輸送型が30輌程度にとどまった。

2012年11月13日火曜日

A7V(ドイツ軍突撃戦車)

情報元:Wikipedia(A7V)

突撃戦車 A7V(独:Sturmpanzerwagen A7V)は第一次世界大戦末期の1918年に実戦投入されたドイツで最初の戦車である。膠着状態に陥った塹壕線を突破することを目的として開発された。

イギリス軍のMk.I戦車が初めて実戦に投入されたのは1916年9月15日、ソンム会戦の事であった。Mk.I戦車は局地的には効果を発揮しドイツ軍には衝撃を持って迎えられたが、結果としては膠着状態を打破することは出来ず、協商国の戦線が11 km 余り前進するにとどまった。
しかし、ドイツではこれを受けてドイツ軍最高司令部 (OHL) が戦時省運輸担当第7課 (Abteilung 7 Verkehrswesen des Allgemeinen Kriegsdepartements im Preußischen Kriegsministerium) に同種の戦闘車両の開発を命じた。要求性能は、あらゆる地形に適応したうえで、前部・尾部に1門ずつの主砲と、側面に機関銃を装備して、時速10 km - 12 km で移動し、幅1.5 m の塹壕を突破できる能力である。これを満たす車輌として、重量30トンの車体に80 - 100馬力のエンジンを搭載することとされた。非武装の輸送型では4トンの積載能力が求められた。
1916年11月13日に、ダイムラー社など有力企業数社と、ドイツ陸軍将校によって構成された交通技術試験委員会 (Verkehrstechnische Prüfungskommission (VPK))および戦時省のあいだに、後に A7V となる全地形走行車両 (Geländespanzerwagen) の開発に関する契約が結ばれ、同年12月22日には開発予算が認められた。これにより、研究段階に止まっていたドイツの装甲戦闘車輛開発が具体化に動き出した。設計責任者はヨーゼフ・フォルマー技師とされた。
開発にあたり、アメリカのホルト社(現在のキャタピラー社)のドイツ国内代理人であるヘール・シュタイナーがアドバイザーとして呼ばれた。またフォルマー技師の提案により、コスト低減と開発を急ぐためにブダペストでライセンス生産されていたホルト社の農業用トラクターが購入された。研究はこれを分解調査するところから始まった。ホルトトラクターは先んじて戦車開発を行っていたイギリスやフランスも参考にしていたものであり、この車輌の構造そのままでは不整地走行能力が不足していたため、大型化とサスペンションの改良が行われた。
1917年1月に最初のプロトタイプが完成したが、機密を維持するために開発部門の頭文字を取った A7V がそのまま名称となった。これには、ヨーゼフ・フォルマー(Joseph Vollmer)からVの字が取られたとも言われている。1917年4月にはシャーシのみの状態で走行試験を開始した。
1917年5月14日にドイツ国内マインツ近くの演習場で木製のボディを被せた試作車輛のデモンストレーションを見学したドイツ軍最高司令部は、さらに10輌の追加生産を命じた。これら20輌の A7V でもって、2個戦車隊(各5輌)を編成して残る10輌は予備とすることを決定した。
生産型には尾部の砲は搭載されず、木製の試作車輛にあった尾部の超壕用ガイド(ルノー FT-17の尾部と同様)も取り付けられなかった。その後も繰り返しテストが行われたが、エンジンの出力不足や冷却などは根本的な解決に至らなかったようだ。
基本となる生産はベルリンのダイムラー社が行い、装甲板はエッセンのクルップ社とステフェンス&ネーレ社、ギアボックスはフランクフルトのアドラー社が担当した。最初の車体は1917年9月に完成し、武装なども施された車輌が納入されたのは1917年10月1日であった。1917年12月1日には A7V(戦車型)が10輌と、同じシャーシを利用した装甲のない兵員・弾薬輸送車型 (Überlandewagen) 90輌の計100輌が発注された。これを1918年に予定されていた春季攻勢に間に合わせるように求められていたが、ダイムラー社の生産能力は月産5輌程度で、参謀本部もUボートや飛行機の生産に資源や工業力を注力させていたため、休戦までに生産されたのは、戦車型が試作もあわせて22輌(524号車はA7V-Uの試作に流用されたため実際は21輌)、輸送型が30輌程度にとどまった。

2012年11月12日月曜日

M13/40(イタリア軍中戦車)

情報元:Wikipedia(M13/40)

M13/40は第二次世界大戦中のイタリアの中戦車である(MはMedio=「中」の略。13/40の13は13t級を意味し、40は1940年に制式化されたことを意味する)。先に開発されたM11/39を改良した戦車である。

1940年にイタリア陸軍機甲総監に就任したフェロレト将軍は装甲車両の近代化計画を推進した。M13 はその計画の中核戦車で、M11/39 を改設計したものである。
M11/39 は砲搭に機銃、車体前面に砲を搭載する自走砲的なスタイルであったために、射界の狭さなどが欠点であったが、主砲の回転砲塔への搭載によってそれを改善した。また主砲はより性能が向上した 47mm 砲とし、装甲厚も最大 40mm へと増加した。連装機関銃は車体へ移され、乗員の数も 1人増えて 4人となった。エンジン出力は105hpから125hpに増加したが、これでも重量の増加に対し不足気味であった。
こうして速力を除けば完全に M11/39 を凌駕した性能を持ったM13は 1940年に M13/40 として制式化された。
しかし、初期型が配備された北アフリカ戦線では砂漠用防砂フィルターが装備されていなかった車両が多かったため、エンジンの故障が多発し、一個中隊がしまいには一個小隊規模になってしまうありさまだった。また、砲塔に換気装置を持たず逆流した発射ガスが充満するため、戦闘中にハッチを空けておく必要があった。その後、エンジン出力125hpから145hpに強化されたM14/41が登場。これはラジエーターグリルのスリットが車体に対して縦方向だったものが横方向に変更された以外、外見上M13/40との区別がつかない。(しかも初期の物はM13/40と同じ。)
性能に関しては1941年ごろまでは第一線で運用できるレベルだったがそのあとは徐々に優位性が奪われていく事になる。M13/40単体では 800輌程度が生産されたが、車台は自走砲にも使用されたものを含めると 2,000輌近くが生産されている。
M13/40 は足回りに問題はあったが、車台は自走砲に使用されるなど名実共にイタリア軍戦車戦力の主力であった。
余談だがこの M13も M11と同じくオーストラリア軍に鹵獲され、識別のためカンガルーのシルエットをペイントのうえ使用され、同じタイプの戦車が撃ち合うという事態が発生している。

2012年11月11日日曜日

M1エイブラムス(アメリカ陸軍及び海兵隊)

情報元:Wikipedia(M1エイブラムス)

M1 エイブラムス(M1 Abrams)は、クライスラー社(現ジェネラル・ダイナミクス社)が開発した主力戦車である。
エイブラムスの名は、この戦車の開発を推進した人物であり、バルジの戦いの英雄でもあるクレイトン・エイブラムス大将に由来する。

M1エイブラムスは、M60パットンの後継として1970年代に西ドイツと共同開発を進めていたMBT-70計画の頓挫により、新たにアメリカ単独で開発し、1980年に正式採用された戦後第3世代主力戦車である。主に、アメリカ陸軍及びアメリカ海兵隊が採用した。
特徴として、当時主流であったディーゼルエンジンではなく、ガスタービンエンジンを採用している点が挙げられる。また、当時としては最先端機器を用いた高度な射撃統制装置 (FCS) を採用した事で、高い命中率を誇る。主砲は西側第2世代主力戦車の標準装備と言える51口径105mmライフル砲M68A1を採用した。
M1エイブラムスは従来のアメリカ戦車と同様に発展余裕に富んだ設計で、制式化後も度重なる改良が施された事も特筆すべき点である。現在では44口径120mm滑腔砲M256を搭載したM1A1や、更に改修を加え第3.5世代主力戦車に分類されるM1A2が運用されている。
湾岸戦争やイラク戦争といった実戦も経験し、現在、世界最高水準の戦車であると世界的に評価されている。

2012年11月10日土曜日

レオパルト2(ドイツ陸軍)

情報元:Wikipedia(レオパルト2)

レオパルト2(Leopard 2)は、西ドイツが開発した第3世代主力戦車である。製造にはクラウス=マッファイ社を中心に複数の企業が携わっている。

『レオパルド』と表記されることがしばしばあるが、ドイツ語では語尾のdは濁らないので、原音に忠実に日本語表記すれば、『レオパルト』が正しい。現場ではレオパルト・ツヴァイ"zwei"ではなく、レオパート・ツヴォー"zwo"と発音されることが多い。これは「3」を意味する、ドライ"drei"との聞き間違いを避けるために、電話などで使われる発音と同様である。

レオパルト1は1965年に登場したが、そのころからソ連戦車の進歩に対応するため、120 mm 滑腔砲を採用した強化版が検討されていた。しかしこれはアメリカとのMBT-70の共同開発プロジェクトを推進するためにキャンセルされた。MBT-70は革新的な設計であったが、想定よりコストが増加し、西ドイツ(当時)は1969年にプロジェクトから撤退した。
純国産の新式戦車の開発は1970年にクラウス・マッファイ社によって始められた。1年後に本戦車のベースとして、MBT-70ではなく、1960年代後半に存在した金メッキのレオパルトプロジェクトが選択された。1971年には新戦車の名称はレオパルト2と決定され、元のレオパルト戦車はレオパルト1となった。同年17輌の試作車が発注され、16輌が製造された。最大車重は50トンとされた。
1973年にアメリカは試作7号車を購入・テストし、1974年12月11日にはアメリカと新型戦車の共同生産について覚書が交わされた。第四次中東戦争の戦訓から、傾斜角をつけた中空装甲を多用した試作車よりはるかに強力な装甲が求められた。その結果、重量は60トン級になった。
14番試作砲塔は新しい装甲の形状をテストするために改造され、ほぼ垂直のスペースド・アーマー(中空装甲)の採用と、砲塔後部の弾薬格納庫によってレオパルト1よりはるかに大型の箱型砲塔となった。このようにレオパルト2はしばしば言われるようなチョバム・アーマーではなく当初は中空装甲を採用した。
試作14号車はまたラインメタルの120 mm 滑腔砲を採用した。アメリカのM1エイブラムスもやがて同じ砲を採用することとなった。その後、2輌の試作車体と3基の試作砲塔が発注された。20番試作砲塔は105 mm 砲 L7とヒューズ社の射撃管制装置を装備し、19番試作砲塔は同じ射撃管制装置に120 mm 砲を装備した。
21番試作砲塔はヒューズ社とクルップ社の共同開発の射撃管制装置と120 mm 砲を装備していた。
1976年夏に19番試作砲塔と車体が、20番の試作車体と装甲防御をテストするための特殊車両と共にアメリカに送られた。この試作車は簡略化された射撃管制装置を装備していたため、レオパルト2AV(簡略化〈austere〉バージョン)と呼ばれた。同年9月1日からレオパルト2とXM1(M1エイブラムスの試作車)との比較テストがアバディーン性能試験場で開始され、同年12月まで続いた。アメリカ陸軍はレオパルト2とXM1は火力と機動力は同等だが、XM1の装甲はより優れていると報告した(砲は同じ105 mm L7砲を装備していたものと思われる)。今日、成型炸薬弾に対してはこの報告は事実であると判明しており、徹甲弾に対してはレオパルト2の装甲はXM1のおよそ2倍の強度を発揮した(XM1の350 mm 厚相当に対して650 mm 厚相当)。
レオパルト2の多燃料対応型ディーゼルエンジンは騒音は大きかったが発熱量は少なく、より信頼性が高く、燃費も良かった。20番の試作車体は砲塔の代わりにダミーウェイトを取り付けられて試験された。比較テストを終了した車体は全てドイツに送り返されたが、19番の試作砲塔のみ残されて7番の試作車体と組み合わされると共に、ラインメタル120 mm 砲に換装された。3月までのテストでこの砲はM1エイブラムスの初期型が搭載していた105 mm L7砲よりはるかに優れていると判明し、引き続いて行われたNATO軍の戦車射撃競技会でも同じ結果が確認された。
1977年1月にドイツは3輌の車体と2基の砲塔からなる量産試作車を発注したが、これらは車体前面により強化された装甲を装備していた。続いて1977年9月に1,800輌のレオパルト2が発注され、5つの量産バッチに分けて製造された。最初のバッチは1979年10月25日に納入された。

2012年11月9日金曜日

八九式中戦車(大日本帝国陸軍)

情報元:Wikipedia(八九式中戦車)

先の試製1号戦車の成功を受け、戦車の国産化に自信を深めた陸軍であったが、試製1号戦車が20 t近い大重量となってしまったために、新たに10 t級の軽戦車を開発することを決定した。
試製1号戦車の成果を元に、1927年(昭和2年)に輸入したイギリスのビッカースC型中戦車を参考・模倣・改良して開発された。
開発は陸軍技術本部第四研究所で1928年(昭和3年)3月に始まり、同年4月に設計要目が決まり、同年8月に概略設計図面ができあがり、直ちに陸軍造兵廠大阪工廠に発注され、1929年(昭和4年)4月に試作車(試製八九式軽戦車1号機)が完成した。試作車は以後、秘匿呼称のイ号とも呼ばれた。以後の量産は改修型も含め、民間企業である三菱航空機(1928年(昭和3年)に三菱内燃機から改称。後の1934年(昭和9年)に三菱造船と合併し三菱重工業となる)にて行われた。1929年(昭和4年)12月1日に三菱航空機は、戦車工場として大井工場を新設し、名古屋製作所芝浦分工場と併せて東京製作所とした。1931年(昭和6年)の満州事変後、日本製鋼所と神戸製鋼所と汽車製造株式会社も生産に関わるようになった。1937年(昭和12年)には下丸子に三菱重工業東京機器製作所丸子工場が新設され、1938年(昭和13年)に陸軍指定の戦車専門工場として稼働し、日本の戦車の6割を生産するようになる。当時から下丸子は一大工業地域であり、主な工場として、1928年(昭和3年)に三井精機の前身である津上製作所(工作機械製造)、1934年(昭和9年)に北辰電機(光学工業)、1935年(昭和10年)に日本精工kk(ボールベアリング製造)、1937年(昭和12年)にキヤノン光学kkなどが移転してきた。これらの工場の多くは、1943年(昭和18年)に軍需会社法により軍需工場に指定された。
1929年(昭和4年)10月には東京~青森間660kmの長距離運行試験に成功し、同年同月、試作車の完成年を皇紀で表した皇紀2589年から、八九式軽戦車として仮制式化された。
最初の試作車は、予定通り重量が9.8 tにおさまったため軽戦車に分類されたが、部隊の運用経験から度々改修が施され、最終的な完成形では車体重量が11.8 t に増加した結果、分類基準の10 tを超えたために1934年(昭和9年)に中戦車に再分類され、八九式中戦車と呼ばれるようになった。この改修によって機動性は悪化してしまっている。
後の九七式中戦車 チハの頃から2文字の秘匿名称を付けるようになり、さかのぼって八九式中戦車にも付けられた。甲型はチイ、乙型はチロとされている。この「チ」は中戦車(チュウセンシャ)、「イ」はイロハ順で一番目を意味する。しかし命名が遅過ぎたためか、実際に現場でチイ、チロと呼ばれることはなかったようである。 生産数は甲型が1934年(昭和9年)までに220輌、乙型が1935年(昭和10年)から1939年(昭和14年)にかけて184輌以上である(甲型が1930年(昭和5年)から1935年(昭和10年)にかけて283輌、乙型が1936年(昭和11年)から1937年(昭和12年)にかけて126輌、総計409輌との説あり)。

2012年11月8日木曜日

10式戦車(陸上自衛隊)

情報元:Wikipedia(10式戦車)

10式戦車(ひとまるしきせんしゃ)は、日本の主力戦車 (MBT)。自衛隊が運用する国産戦車としては4代目となる。平成21年(2009年)に制式化された。

陸上自衛隊の最新の国産主力戦車であり、国産の自衛隊装備品としては四代目となる。自衛隊は第三世代戦車であった先代の90式戦車を上回る、第四世代戦車と定義している。
開発は防衛省技術研究本部、試作・生産は三菱重工業が担当した。戦闘力の総合化、火力・機動力・防護力の向上、小型・軽量化などを達成し、2009年(平成21年)12月に「10式」と命名された。
主砲には日本製鋼所の国産44口径120mm滑腔砲(軽量高腔圧砲身)を備え、新型の国産徹甲弾の使用により貫徹力を向上させている。また、90式戦車と同様に自動装填装置を採用し、乗員は車長・砲手・操縦手の3名である。小型・軽量化と応答性・敏捷性の向上のため、水冷4サイクルV型8気筒ディーゼル機関と油圧機械式無段階自動変速操向機 (HMT) を組み合わせた動力装置(パワーパック)を搭載する。また、全国的な配備・運用のために車体を小型軽量化したことで重量は約44tに抑えられており、更に着脱が容易なモジュール型装甲を実装している。日本の戦車・戦闘車両としては初めてC4Iシステムを装備したことも特徴である。
平成22年度(2010年)より調達が開始されており、平成23年度(2011年)より富士教導団戦車教導隊などから順次部隊配備される。平成24年(2012年)に量産第1号車が富士学校機甲科部に引き渡された。