2012年11月10日土曜日

レオパルト2(ドイツ陸軍)

情報元:Wikipedia(レオパルト2)

レオパルト2(Leopard 2)は、西ドイツが開発した第3世代主力戦車である。製造にはクラウス=マッファイ社を中心に複数の企業が携わっている。

『レオパルド』と表記されることがしばしばあるが、ドイツ語では語尾のdは濁らないので、原音に忠実に日本語表記すれば、『レオパルト』が正しい。現場ではレオパルト・ツヴァイ"zwei"ではなく、レオパート・ツヴォー"zwo"と発音されることが多い。これは「3」を意味する、ドライ"drei"との聞き間違いを避けるために、電話などで使われる発音と同様である。

レオパルト1は1965年に登場したが、そのころからソ連戦車の進歩に対応するため、120 mm 滑腔砲を採用した強化版が検討されていた。しかしこれはアメリカとのMBT-70の共同開発プロジェクトを推進するためにキャンセルされた。MBT-70は革新的な設計であったが、想定よりコストが増加し、西ドイツ(当時)は1969年にプロジェクトから撤退した。
純国産の新式戦車の開発は1970年にクラウス・マッファイ社によって始められた。1年後に本戦車のベースとして、MBT-70ではなく、1960年代後半に存在した金メッキのレオパルトプロジェクトが選択された。1971年には新戦車の名称はレオパルト2と決定され、元のレオパルト戦車はレオパルト1となった。同年17輌の試作車が発注され、16輌が製造された。最大車重は50トンとされた。
1973年にアメリカは試作7号車を購入・テストし、1974年12月11日にはアメリカと新型戦車の共同生産について覚書が交わされた。第四次中東戦争の戦訓から、傾斜角をつけた中空装甲を多用した試作車よりはるかに強力な装甲が求められた。その結果、重量は60トン級になった。
14番試作砲塔は新しい装甲の形状をテストするために改造され、ほぼ垂直のスペースド・アーマー(中空装甲)の採用と、砲塔後部の弾薬格納庫によってレオパルト1よりはるかに大型の箱型砲塔となった。このようにレオパルト2はしばしば言われるようなチョバム・アーマーではなく当初は中空装甲を採用した。
試作14号車はまたラインメタルの120 mm 滑腔砲を採用した。アメリカのM1エイブラムスもやがて同じ砲を採用することとなった。その後、2輌の試作車体と3基の試作砲塔が発注された。20番試作砲塔は105 mm 砲 L7とヒューズ社の射撃管制装置を装備し、19番試作砲塔は同じ射撃管制装置に120 mm 砲を装備した。
21番試作砲塔はヒューズ社とクルップ社の共同開発の射撃管制装置と120 mm 砲を装備していた。
1976年夏に19番試作砲塔と車体が、20番の試作車体と装甲防御をテストするための特殊車両と共にアメリカに送られた。この試作車は簡略化された射撃管制装置を装備していたため、レオパルト2AV(簡略化〈austere〉バージョン)と呼ばれた。同年9月1日からレオパルト2とXM1(M1エイブラムスの試作車)との比較テストがアバディーン性能試験場で開始され、同年12月まで続いた。アメリカ陸軍はレオパルト2とXM1は火力と機動力は同等だが、XM1の装甲はより優れていると報告した(砲は同じ105 mm L7砲を装備していたものと思われる)。今日、成型炸薬弾に対してはこの報告は事実であると判明しており、徹甲弾に対してはレオパルト2の装甲はXM1のおよそ2倍の強度を発揮した(XM1の350 mm 厚相当に対して650 mm 厚相当)。
レオパルト2の多燃料対応型ディーゼルエンジンは騒音は大きかったが発熱量は少なく、より信頼性が高く、燃費も良かった。20番の試作車体は砲塔の代わりにダミーウェイトを取り付けられて試験された。比較テストを終了した車体は全てドイツに送り返されたが、19番の試作砲塔のみ残されて7番の試作車体と組み合わされると共に、ラインメタル120 mm 砲に換装された。3月までのテストでこの砲はM1エイブラムスの初期型が搭載していた105 mm L7砲よりはるかに優れていると判明し、引き続いて行われたNATO軍の戦車射撃競技会でも同じ結果が確認された。
1977年1月にドイツは3輌の車体と2基の砲塔からなる量産試作車を発注したが、これらは車体前面により強化された装甲を装備していた。続いて1977年9月に1,800輌のレオパルト2が発注され、5つの量産バッチに分けて製造された。最初のバッチは1979年10月25日に納入された。