2012年11月9日金曜日

八九式中戦車(大日本帝国陸軍)

情報元:Wikipedia(八九式中戦車)

先の試製1号戦車の成功を受け、戦車の国産化に自信を深めた陸軍であったが、試製1号戦車が20 t近い大重量となってしまったために、新たに10 t級の軽戦車を開発することを決定した。
試製1号戦車の成果を元に、1927年(昭和2年)に輸入したイギリスのビッカースC型中戦車を参考・模倣・改良して開発された。
開発は陸軍技術本部第四研究所で1928年(昭和3年)3月に始まり、同年4月に設計要目が決まり、同年8月に概略設計図面ができあがり、直ちに陸軍造兵廠大阪工廠に発注され、1929年(昭和4年)4月に試作車(試製八九式軽戦車1号機)が完成した。試作車は以後、秘匿呼称のイ号とも呼ばれた。以後の量産は改修型も含め、民間企業である三菱航空機(1928年(昭和3年)に三菱内燃機から改称。後の1934年(昭和9年)に三菱造船と合併し三菱重工業となる)にて行われた。1929年(昭和4年)12月1日に三菱航空機は、戦車工場として大井工場を新設し、名古屋製作所芝浦分工場と併せて東京製作所とした。1931年(昭和6年)の満州事変後、日本製鋼所と神戸製鋼所と汽車製造株式会社も生産に関わるようになった。1937年(昭和12年)には下丸子に三菱重工業東京機器製作所丸子工場が新設され、1938年(昭和13年)に陸軍指定の戦車専門工場として稼働し、日本の戦車の6割を生産するようになる。当時から下丸子は一大工業地域であり、主な工場として、1928年(昭和3年)に三井精機の前身である津上製作所(工作機械製造)、1934年(昭和9年)に北辰電機(光学工業)、1935年(昭和10年)に日本精工kk(ボールベアリング製造)、1937年(昭和12年)にキヤノン光学kkなどが移転してきた。これらの工場の多くは、1943年(昭和18年)に軍需会社法により軍需工場に指定された。
1929年(昭和4年)10月には東京~青森間660kmの長距離運行試験に成功し、同年同月、試作車の完成年を皇紀で表した皇紀2589年から、八九式軽戦車として仮制式化された。
最初の試作車は、予定通り重量が9.8 tにおさまったため軽戦車に分類されたが、部隊の運用経験から度々改修が施され、最終的な完成形では車体重量が11.8 t に増加した結果、分類基準の10 tを超えたために1934年(昭和9年)に中戦車に再分類され、八九式中戦車と呼ばれるようになった。この改修によって機動性は悪化してしまっている。
後の九七式中戦車 チハの頃から2文字の秘匿名称を付けるようになり、さかのぼって八九式中戦車にも付けられた。甲型はチイ、乙型はチロとされている。この「チ」は中戦車(チュウセンシャ)、「イ」はイロハ順で一番目を意味する。しかし命名が遅過ぎたためか、実際に現場でチイ、チロと呼ばれることはなかったようである。 生産数は甲型が1934年(昭和9年)までに220輌、乙型が1935年(昭和10年)から1939年(昭和14年)にかけて184輌以上である(甲型が1930年(昭和5年)から1935年(昭和10年)にかけて283輌、乙型が1936年(昭和11年)から1937年(昭和12年)にかけて126輌、総計409輌との説あり)。